Revision as of 16:41, 13 April 2008 edit128.123.80.42 (talk) →Historical context: Bereans← Previous edit | Revision as of 19:45, 1 May 2008 edit undoXabre1200 (talk | contribs)8 editsNo edit summaryNext edit → | ||
Line 1: | Line 1: | ||
بوكيمون (بالإنجليزية: Pokémon ؛ باليابانية: ポケモン) هي سلسلة ألعاب فيديو تابعة لشركة نينتندو. معظم الألعاب هي من نوع الـ RPG ، و لكن هناك بعض الأنواع الأخرى ايضاً. الإمتياز ايضاً لديه لعبة البطاقات التبديل ، و أنمي ، و مانچا ، و ألعب عادية ، و كتب ، و أشياء أخرى . | |||
'''Bereans''' were the inhabitants of the ancient city of Berea, also known in the ] as Beroea and now known as ]. | |||
سلسلة الألعاب هي فكرة وإنشاء ساتوشي تاجيري ] في العام 1995 ميلادية ، و صدر أوائل الألعاب فيديو في اليابان على جهاز الچيم بوي النقال. يدور معظم مفهوم الألعاب ، و خصوصاً الألعاب الـ RPG ، عن الشخصية الاساسية في عالم خيالي ممتلأ بمخلوقات عجيبة التي تشبه الحيوانات يسمون بالـ"بوكيمون". الدور التي تمثل الشخصية الأساسية هي أن تغامر المنطقة التي تعيش فها ، و تمشي إلى براري المنطقة حتى يمكنها ملاحقة و إمساك بالبوكيمونات. البوكيمونات التي تتم الإمساك بها ثمة تدرب للقتل لحد يمكن الشخصية الاساسية أن تقاتل غير شخصيات مع بوكيمونات خص لهم. | |||
==Biblical context== | |||
التسمية لـبوكيمون (Pokémon) مأخوذة من تقصير الحروف لاتينية لالعلامة اليابانية "Pocket Monsters" (باليابانية كـ"ポケットモンスター" أو Poketto Monsutā) والتي تعني "وحوش الجيب" باللغة العربية. أشتهر بوكيمون في الولايات المتحدة في 1997 عندما صدرت شركة نينتندو لألعبتها المتعلقة بالبوكيمون. | |||
According to the ], Chapter 17 verse 11, ] and ] preached at ], and the inhabitants "eagerly examined the scriptures every day to see whether these things were so", and many of them believed. | |||
مع التقدم إلى الجيل الرابع في سلسلة بوكيمون ، رسمياً هناك 493 نوع من البوكيمونات. | |||
==Historical context== | |||
Many churches and ministries, predominantly ] ] in the ], that have an emphasis on the ], have adopted the name Berean in allusion to this account. The Catholic Diocese of Lincoln describes one particular affiliation, the Berean Church, as comprising about 60 independent U.S. congregations of similar beliefs with features in common with ]s, ] and ]. Their central emphasis on scriptural authority, '']'', puts their beliefs in particular conflict with ] as well as ]. | |||
وصلات خارجيةالموقع الرسمي لشركة البوكيمون في الولايات المتحدة | |||
1996年2月27日にゲームボーイ用ソフト『ポケットモンスター 赤・緑』が発売された。この作品が小学生を中心に口コミから火が点き大ヒットとなった。その後、他機種を含め続編や関連ゲーム、関連製品が数多く発売され、2007年現在で同タイトルを冠したソフトの売り上げは世界で1億6400万本以上となった。これはゲームキャラクター毎のシリーズ別で比較した場合、世界第2位の数値となる(1位はマリオシリーズの1億9300万本以上)。また、関連商品の売上は全世界で累計250億ドル以上にも及ぶ。 | |||
Historically, the '''Bereans''' (also called Beroeans, Barclayans or Barclayites) were a Protestant sect following former Scottish ] minister ]. Founded in ] in ], the Berean Church followed a modified form of ]. It had congregations in ], ] and ], but mainly merged with the ] after Barclay's death. | |||
開発元はゲームフリーク、コンセプトメーカーにしてディレクターを務めたのは同社代表取締役でもある田尻智(ポケットモンスター (ゲーム)参照)。 | |||
Some groups among the ] also adopted the name, such as the ''Berean Bible Students'' and the ''Berean Bible Institute''. | |||
1997年4月1日よりテレビ東京系列にてアニメ化もされており、主人公サトシ及びその仲間と彼らのポケモン達による冒険物語として大好評を博す(ポケットモンスター (アニメ)参照)。 | |||
A new Protestant Christian group began in the 1850's in the United States under the tutelage of Dr. John Thomas. The name "Christadelphian" was chosen as it is believed that those who believe and obey the Commandments of Christ and the Bible as the inspired word of God, are "Brethren in Christ". The original group split, with one group continuing with the name "The Christadelphians" and the second group adding the word "Berean" to become the "Berean Christadelphians". The word "Berean" was chosen to reflect the words in Acts 17, "These (Berea) were more noble than those in Thessalonica in that they received the word with all readiness of mind and searched the scriptures daily whether those things were so." Christadelphians, and Berean Christadelphians believe in the promises given to Abraham, Isaac, and David concerning the Kingdom of God. They deny the idea of the "Trinity" like main-stream Christianity, and this is considered one of the main dividing points between Christadelphians/Berean Christadelpians and the Catholic Church and other protestant churches. | |||
多数登場するポケモンのキャラクター性も重要な要素の一つであり、中でもアニメの影響でピカチュウが様々な製品に取り上げられている。現在までに「発見」されているポケモンの数は492種となっている。デオキシスやミノムッチやアンノーンなど、細かく分けた場合は500匹を超える(ポケットモンスター (架空の生物)参照)。 | |||
==References== | |||
*Bereans / John Barclay: ''The Concise Oxford Dictionary of the Christian Church. E. A. Livingstone. Oxford University Press, 2000'' | |||
また、ポケモンバトルの戦術性の高さを再現したトレーディングカードゲーム(TCG)『ポケモンカード』シリーズも制作されており、TCGプレイヤー層も巻き込んでファンを広げた(ポケモンカードゲーム参照)。 | |||
==External links== | |||
一方、アニメコンテンツが充実した頃を境にアメリカをはじめとする国々にも “Pokémon”の名称で商品展開を開始し、ゲーム・アニメともに好調な成績を収めている。 | |||
* | |||
*, | |||
*, The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition. 2001. | |||
* | |||
* Evangelistic ministry that "places particular emphasis on the evangelization and conversion of Catholics". | |||
* : "Why the Bereans rejected '']''" | |||
* (Catholic POV). | |||
* | |||
* | |||
* | |||
現在ではメディアミックスや国際的にも通用するキャラクター戦略の成功例として、日本経済新聞に紹介され、注目されている。日本経済新聞社主催の経済セミナーなどでポケモンをテーマとして講演をすることもある。 | |||
また、略称及び漢字圏以外での呼称である「ポケモン」は、ポケモン関係の商品を扱った事業を展開する会社名「株式会社ポケモン」にも使われている。 | |||
] | |||
RPG作品としての『ポケットモンスター』 | |||
内容 | |||
『ポケットモンスター』シリーズは、「ポケットモンスター(以下ポケモン)」という不思議な生き物が生息する世界において、ポケモンを自らのパートナーとしてポケモン同士のバトルを行う「ポケモントレーナー」達の闘いを描くRPGである。 | |||
主人公(プレイヤー)は、ポケモントレーナーとなり世界を旅することになる。ゲーム内に存在する他のポケモントレーナーとの対戦を多数交え、ポケモンジムバッジを集めることで、ポケモンリーグの出場条件を得、ポケモントレーナーの頂点を目指す。また、多くのポケモンを捕まえることでポケモン図鑑の完成を目指すなどの目的がある。片田舎に暮らす少年(少女)が街へ行き、ライバルの少年(少女)との対決。さまざまな街での人々との出会い、ポケモンとの出会いと育成などストーリーは、少年(少女)時代の思い出に近いなど大人でも楽しめる深いものでもある。さらに、友達と対戦したりポケモンを交換できる通信機能がある。システム面などにおける詳細はポケットモンスター (ゲーム)を参照。 | |||
シリーズ一覧 | |||
日本では以下の各バージョンが発売・発表されている。カッコ内は発売日と対応機種を表している。 | |||
『赤・緑』系バージョン | |||
ポケットモンスター 赤・緑(1996年2月27日、ゲームボーイ) | |||
ポケットモンスター 青(1996年10月15日、ゲームボーイ)(コロコロコミックでの応募開始日。一般販売は1999年の10月10日) | |||
ポケットモンスター ピカチュウ(1998年9月12日、ゲームボーイ) | |||
ポケットモンスター ファイアレッド・リーフグリーン(2004年1月29日、ゲームボーイアドバンス) | |||
『金・銀』系バージョン | |||
ポケットモンスター 金・銀(1999年11月21日、ゲームボーイ・ゲームボーイカラー共通) | |||
ポケットモンスター クリスタルバージョン(2000年12月14日、ゲームボーイカラー専用) | |||
『ルビー・サファイア』系バージョン | |||
ポケットモンスター ルビー・サファイア(2002年11月21日、ゲームボーイアドバンス) | |||
ポケットモンスター エメラルド(2004年9月16日、ゲームボーイアドバンス) | |||
『ダイヤモンド・パール』系バージョン | |||
ポケットモンスター ダイヤモンド・パール(2006年9月28日、ニンテンドーDS) | |||
ゲーム開発の背景とヒットまでの経緯 | |||
ポケモン前史 | |||
収集・育成を楽しむ趣味や遊びは以前から存在していた。1971年-72年に「仮面ライダースナック」の仮面ライダーカードのコレクションブームがある。 | |||
1986年には、ファミコンでドラゴンクエストが、1987年にはファイナルファンタジーが発売されており、ポケモン発売の1996年までに多くの続編も発売され、その後も続く人気RPGシリーズとして定着している。 | |||
1988年-93年にはロッテの『ビックリマンチョコ』が、第10代目の天使悪魔シリーズのシール集めで爆発的なブームとなった。小学館は、自社の雑誌コロコロコミックやアニメを含む、大規模なメディアミックス戦略でこのブームを後押ししていた。この路線で、作り込み・対戦型おもちゃミニ四駆や収集・対戦型おもちゃバーコードバトラー、さらにはポケモンブームを後押しすることになる。 | |||
1989年、ポケモンの生みの親である田尻智は、「ゲームフリーク」を設立。最初のゲーム作品「クインティ」をナムコから発売した。クインティは「めくる」という動詞をコンセプトとするゲームである。 | |||
ゲームフリーク設立と同じ1989年、任天堂からゲームボーイが発売された。携帯機の特性上、パズルやアクションゲーム向けと見られていた。実際そうしたゲームは多数発売されたが、田尻はスクウェアのRPG『魔界塔士 Sa・Ga』の成功を見て、携帯機でもアクションでない分野を追求できると気づいた。 | |||
田尻はゲームボーイの通信機能に着目。「交換する」という動詞をコンセプトにしたゲームの着想を得た。田尻はその着想を基に、「カプセルモンスター」というRPGの企画書を書き上げた。田尻のイメージした「カプセルモンスター」とは、カプセルトイのようなケースに入ったモンスターが、通信ケーブルを行き来するものであった。田尻はこの企画書を任天堂に持ち込んだ。任天堂はそれを受け開発費の支出を決定した。1990年秋の事である。 | |||
後に「カプセルモンスター」の名称は、商標権の問題で商品名に使えないこと、略した時に「カプモン」となり語呂が悪いことなどから、現在の「ポケットモンスター」に改められた。 | |||
開発 | |||
「ポケモン」の納期は、当初1991年末だったが、RPGのノウハウ不足や、「交換する」という動機付けに手間取り、納期を超過した。不足する資金を補うため他のゲームを開発するなど、しばしば開発は中断された。1995年頃までに、『MOTHER2』を制作したエイプから新会社クリーチャーズの社長に就任した石原恒和(現・株式会社ポケモン代表取締役社長)が全体をまとめて方向付けを行う役を担うようになり、ゲームフリークと開発委託契約を結んで、プロデューサーとして数々の企画を任天堂などへと提案していく火付け役となった。そして当初から開発を支援した任天堂もまた、完成をねばり強く待ち続けた。 | |||
元々ゲームフリークのスタッフが仕掛けたコンセプトは、当時まだゲームボーイですらろくに着目されていなかった「収集、育成、対戦、交換」というゲーム要素を徹底的に遊ばせようという目論見でもあり、それを支えるべく、ゲームボーイの通信機能をフル活用して「2つのバージョンの間、または友達のソフトとの間で通信を行わないとポケモン図鑑が完成しない」「(強制ではないが)自分が育てたポケモンで友達と対戦できる」という仕様を盛り込んでいた。また個々のプレイデータには個別のIDと主人公の名前が与えられ、所有するポケモンに対して「親ID」として働き個々のポケモンをさらに個性化する、という仕様も持たせた。当初はプレイヤーIDによってソフト1本ごとに登場するポケモンが異なるという仕様だったが、複雑になりすぎるということで任天堂の宮本茂の提案により2バージョンに分けて発売する手法がとられた。そして当時の主流に比べかなり大容量のバックアップメモリを搭載する仕様に切り替え、150種類全てのポケモンを保存することが可能になった。そうした紆余曲折の末に、開発開始から6年後の1995年末にポケモン『赤・緑』が完成を迎えた。 | |||
発売 | |||
1996年当時、ゲームボーイに限らず携帯型ゲーム機市場は停滞状態を迎えていた。ゲームギアなどカラー表現が可能な後続機種もほぼ終息状態にあり、テレビゲームには「次世代機」と銘打ってプレイステーションやセガサターンが登場し、発売から丸6年が経っていたゲームボーイは次第に時代遅れと見られ始めていた。事実、『ポケットモンスター』発売直後の時点で、GBにて発売が予定されていたゲームソフトはわずか3タイトルである。 | |||
市場にはRPGだけでも既に多くのゲーム作品が発売されており、ゲームボーイでリリースされる『ポケットモンスター』も大きな期待を持たれない存在であり、初回出荷本数は23万本強に過ぎなかった。また、2色同時発売という販売手法は、当初はあこぎな商売とすら揶揄された。しかし、「収集、育成、対戦、交換」というゲーム要素は、徐々にユーザーたちの支持を得ていき、さらにユーザー間のコミュニケーションにより加速。制作側の期待や予測を越えた爆発的な好循環を生んだ。販売本数はゲームボーイ向け『赤・緑』系全体で最終的に1000万本を優に超したとされている。 | |||
「ポケモン後」の市場の変化 | |||
『ポケットモンスター』発売以降、ゲームボーイ市場、引いてはコンシューマーゲーム市場そのものは大きく変化した。 | |||
後続のゲームソフトはこぞって「収集、育成、対戦、交換」の要素を盛り込み、また2バージョン同時リリースの手法を採る作品も現れるなど、二匹目のドジョウを狙った。任天堂自身もその手のゲームの開発に力を注いだ他、「ポケモン頼み」のラインナップに切り替えるなどの露骨な路線を歩んだ時期もあった。しかしそれらは必ずしも成功したとは言えない。前者については、各社において販売本数に如実な差が付き、結局はゲームソフトの商品力が販売力を決めることを再認識させる結果となった(成功と言われているのはエニックスから後ほど発売された『ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド』、イマジニアの『メダロット』、アトラスの『真・女神転生デビルチルドレン』位であろう)。また後者については、任天堂にとって、顧客ユーザーの低年齢層への望まざる偏在化などを引き起こす一因となった。 | |||
ポケモン自体も、純粋な新作以外に多くの派生作品を生み出した(ポケットピカチュウ、不思議のダンジョンなど)。また、微妙な追加要素を含んだ新バージョン(青、クリスタル、エメラルド)もいくつか発売されている。派生作品の購入のさせ方が巧妙という批判もある(例えば2006年度の映画の前売り券についていた「極秘ミッション引換券」は、DS本体とポケモンレンジャーを持っていないとゲットできなかった。しかし、ユーザーの声に配慮してか、イベント配布等入手機会を増やすようになった)。 | |||
ポケモンはゲームのみならず、アニメ化やキャラクター商品化、カードゲーム化され、海外でも好評を得ている。そして、現在に至るまでその人気は継続している。 | |||
アニメ | |||
詳細はポケットモンスター (アニメ)参照。また、アニメ本編以外にも週刊ポケモン放送局、ポケモン☆サンデーなどの番組がある。 | |||
劇場版 | |||
テレビシリーズとのギャップを感じる優れたCG映像処理や、毎年出演する豪華なゲストが特徴。 | |||
詳細はポケットモンスター (劇場版)を参照。 | |||
年末特番 | |||
年末に公開された長編作品。 | |||
ポケットモンスター ミュウツー! 我ハココニ在リ - 2000年12月30日公開。 | |||
ポケットモンスタークリスタル ライコウ雷の伝説 - 2001年12月30日公開。 | |||
10周年記念特別アニメ | |||
戦慄のミラージュポケモン The Mastermind of Mirage Pokémon | |||
「ミラージュシステム(Mirage system)」と呼ばれる機械をめぐるオリジナルアニメ。主題歌は"Pokémon Go"。 | |||
2006年4月に10周年を記念し、アメリカでテレビ放送された。2007年にはカナダでもテレビ放送された。 | |||
日本では、2006年10月13日(金)17:00から10月31日(火)24:00まで、初のポケモンネット配信限定アニメとして配信された。 | |||
ポケモン不思議のダンジョン 出動ポケモン救助隊ガンバルズ! | |||
2006年9月8日に北米でのゲーム『ポケモン不思議のダンジョン』発売にさきがけてアメリカにてテレビ放送された。 | |||
日本では、2007年3月23日から5月14日に「ポケモンネット配信限定アニメ第2弾」としYahoo! Japanの動画コンテンツで配信が行なわれた。2007年には韓国でもテレビ放送された。 | |||
ポケモン不思議のダンジョン 時の探検隊・闇の探検隊 | |||
2007年9月9日に『ポケモン不思議のダンジョン 時の探検隊・闇の探検隊』発売にさきがけてポケモン☆サンデー内で放送された。 | |||
後に2007年9月13日から9月30日にあにてれで、9月20日から10月31日にYahoo! Japanの「Yahoo!きっずポケモン」にて、それぞれ動画の無料配信が行われていた。 | |||
関連商品・作品 | |||
関連ゲームソフト | |||
対戦、保管ツール | |||
ゲームボーイの本編ポケットモンスターシリーズで捕まえたポケモンを、よりよい環境で対戦したり、より多く保管することができるツールとしてのソフト。ポケモンが3D化されるのが最大の魅力。おまけ機能も充実している。 | |||
『ポケモンスタジアム』(NINTENDO64)/1998年8月1日発売 売上本数約137万本 | |||
従来の平面なゲームボーイでの対戦をNINTENDO64に移植することにより、ポケモンの3D化が実現した。ただ、急いで発売にこぎつけたためか対戦にポケモンは全種使用できず、40種に限られた。 | |||
プレイヤーのデータ等の読み込みは、ゲームボーイのカートリッジから64GBパックを介する形がとられている。後から、64DDの追加ディスクにより、キャラクターデータを追加する予定があったが、実現せず。 | |||
『ポケモンスタジアム2』(NINTENDO64)/1999年4月30日発売 売上本数約71万本 | |||
前作に各機能が強化され、当時の全ポケモン151種が参加できるようになった。また、日本国外でのポケモンスタジアムはこれが1作目。 | |||
対戦ルールは6種類と、シリーズ中でもっとも多彩である。 | |||
GB版のプレイでは複数から1匹選択しなければならなかったポケモンを、プレゼントという形でいくらでも入手することができる(しかも、それを『金・銀・クリスタル』に送ると他では入手不可のアイテムを持っている)。 | |||
『ポケモンスタジアム金銀』(NINTENDO64)/2000年12月14日発売 売上本数約114万本 | |||
『金・銀・クリスタル』に対応したバージョン。ミニゲーム、ポケモンに関する資料が豊富で、攻略本の代わりにもなる。スタジアム系ソフトの決定版との評判が多い。また、日本国外では2作目として発売された。 | |||
『ポケモンボックス ルビー&サファイア』(ニンテンドーゲームキューブ)/2003年5月30日発売 | |||
捕まえたポケモンを保管するのが主な目的のツール。1500匹まで預けられる。ポケモンを駒に変え、並べて眺めることもできる。『ファイアレッド・リーフグリーン』『エメラルド』にも対応。単体に加え、GBAケーブル同梱版も発売された。両者ともオリジナルカラーの「メモリーカード59」(クリアブルー&クリアレッド)が同梱。大容量である「メモリーカード251」「メモリーカード1019」には対応していない。 | |||
『ポケモンコロシアム』(ゲームキューブ)/2003年11月21日発売 | |||
『ルビー・サファイア・エメラルド』『ファイアレッド・リーフグリーン』に対応した対戦環境と機能を持つソフト。 | |||
今までと路線が異なるオリジナルのシナリオで、RPGとしてのポケモンを楽しむこともできる。オーレ地方を舞台に、何者かに心を閉ざされたポケモン「ダークポケモン」をスナッチ&リライブと呼ばれる方法で元に戻すのが主な目的である。『ルビー・サファイア』はおろか『ファイアレッド・リーフグリーン』でも入手できなかった『金・銀』のポケモンが多数入手できることが特徴。シナリオ中はすべてダブルバトルになっている。一方で、「スタジアム」シリーズと比較した不満の声も多く聞かれた。 | |||
オリジナルカラーのメモリーカード59(クリアブラック)同梱。 | |||
『ポケモンXD 闇の旋風ダーク・ルギア』(ゲームキューブ)/2005年8月4日発売 | |||
ストーリー的に『ポケモンコロシアム』の続編だが、完全な新作RPGという位置づけで開発された商品。だが基本は同じで、心を閉ざした「ダークポケモン」をスナッチ&リライブと呼ばれる方法で元に戻すのがシナリオの柱となっている。 | |||
メモリーカードは同梱されていない。 | |||
この作品には、ゴンベとウソハチの2種類の新ポケモンが先行登場している(ただし捕獲はできない)。 | |||
『ポケモンバトルレボリューション』(Wii)/2006年12月14日発売 | |||
ニンテンドーDSで発売される新作『ダイヤモンド・パール』と繋げることができ、『ダイヤモンド・パール』で登場する492種(現時点)のポケモンのバトルをWiiで遊ぶことができる。これまでの対戦型ソフトは初代『スタジアム』で作られたモデルやモーションが最新作である『XD』にもそのまま流用されていたが、本作では全てのポケモンのグラフィックが一新されており、実況も復活した。唯一のフレンド交換を掲示板でしなくてもWi-Fi対戦ができるツールとして優秀であった。だが、ルール設定が乏しいなど問題点も多い。 | |||
ポケモン世界体験型ゲーム | |||
本編RPGの外伝的な作品。より奥深いポケモン世界を体験できる、ポケモンファン御用達ゲーム。 | |||
『ピカチュウげんきでちゅう』(NINTENDO64)/1998年12月12日発売 売上本数約74万本 音声認識システムNINTENDO64 VRS同梱 | |||
家庭用テレビゲームとしては世界初の音声認識を利用したゲーム。オーキド博士から与えられた翻訳機(ポケットヘルパー)を使い、ピカチュウとコミュニケーションを取りながら親睦を深めていく。音声認識システムには、NEC開発の「アルトーカー(LSI)」を採用。 | |||
『ポケモンスナップ』(NINTENDO64)/1999年3月21日発売 売上本数約49万本 | |||
ポケモン写真家のトオルが、ある島を訪れてポケモンの生態を写真に収めていく。アイテムを駆使することで、あらゆる場面を作り出せる。ファンサービスとしてか、オーキド博士が写真評価の役で登場する。Wiiバーチャルコンソールで配信中。 | |||
カセットをローソンに持ち込むと、写真データをシールにしてもらえるサービスもあった(現在はすでに終了)。 | |||
『ポケモンチャンネル ~ピカチュウといっしょ!~』(ゲームキューブ)/2003年7月18日発売 | |||
テレビ局「ポケモンチャンネル」から放映される番組をピカチュウと一緒に観たり、お買い物したり、様々な場所へ連れて歩くことで、親睦を深めていく。30分以上に渡るオリジナルアニメ「ピチュピチュブラザーズ」が収録されたことで注目された。ポケモン映画のプロモーション映像が収録された「番組拡張ディスク」と、カードeリーダー+用カード3枚を同梱。 | |||
『ポケモン不思議のダンジョン 青の救助隊・赤の救助隊』(ニンテンドーDS・ゲームボーイアドバンス)/2005年11月17日発売 | |||
『不思議のダンジョン』シリーズのポケモン版として作られた。開発はチュンソフト。ニンテンドーDS版「青の救助隊」とゲームボーイアドバンス版「赤の救助隊」が同時発売。 | |||
ポケモンだけが暮らす異世界を舞台に、人間からポケモンになってしまった主人公が友達(パートナー)になったポケモンと救助隊を結成し、ポケモン達からの救助依頼をクリアしながら自分がポケモンになった理由を探すローグライクゲーム。 | |||
この作品には、ルカリオ等ポケットモンスターダイヤ・パール登場予定のポケモンも先行登場していた。 | |||
2005年11月25日に、「青の救助隊」において、「赤の救助隊」以外の一部のGBAカートリッジをニンテンドーDSに刺したまま遊ぶとそのカートリッジのセーブデータが消えてしまう不具合が発表された。 | |||
『ポケモンレンジャー』(ニンテンドーDS)/2006年3月23日発売 | |||
フィオレ地方を舞台にした、ポケモンレンジャーになった主人公によるアクションアドベンチャー。レンジャーはキャプチャ・スタイラーという道具を使ってポケモンを仲間にできる。しかしレンジャーはポケモントレーナーとは違い、仲間になったポケモンを一度力を借りたら自然に帰さなくてはいけない(リリース)。 | |||
『ポケモン不思議のダンジョン 時の探検隊・闇の探検隊』(ニンテンドーDS)/2007年9月13日発売 | |||
副タイトルは「時の探検隊」「闇の探検隊」。コロコロコミック2007年6月号にて発表になった。 | |||
ポケモンだけが暮らす異世界を舞台に、人間からポケモンになってしまった主人公が友達(パートナー)になったポケモンと共に探検隊に入隊し、ポケモン達からの依頼をクリアしながら自分がポケモンになった理由を探すローグライクゲーム。 | |||
『ポケモンレンジャー バトナージ』(ニンテンドーDS)/2008年3月20日発売 | |||
ポケモンカード | |||
30枚一組または60枚一組のデッキを組み、2人が対戦するカードゲーム。「サイドカード」と呼ばれる、ポケモンを「きぜつ」させたときに得られるカードをすべて取るか場にポケモンがいなくなった場合に勝敗が決まる。詳しくはポケモンカードゲームの項を参照のこと。 | |||
『ポケモンカードGB』(ゲームボーイ)/1998年12月18日発売 売上本数約139万本 | |||
トレーディングカードゲーム『ポケモンカードゲーム』をテレビゲーム化したもの。プレイするうちにルールをわかってもらうことを目的として作られ、対戦相手がいなくても手軽にプレイできるのが特徴。8人のクラブマスター、4人のグランドマスターに勝ち抜くことを目的としている。初期のスターターパックと第3弾までの拡張パックのほか、本ゲームオリジナルのカードも多数収録されている。 | |||
『ポケモンカードGB2 GR団参上!』(ゲームボーイ)/2001年3月28日発売 | |||
1作目の続編。拡張パック第4弾と拡張シートシリーズを新たに収録しただけでなく、GR団を倒していく設定になっており、ストーリー要素が充実している。ただし1作目との通信は不可能。 | |||
2作とも旧シリーズのポケモンカードがベースなので、ルールなどは現行と異なる部分も多い。 | |||
ピンボール、パズル | |||
ポケモンを題材にしたピンボール、パズルゲームなど。ここでのポケモンは単にキャラクターとして扱われていることが多く、シナリオらしいものが存在するのも『ポケモントローゼ』だけである。 | |||
『ポケモンピンボール』(ゲームボーイ)/1999年4月14日発売 売上本数約102万本 | |||
ステージを行き来し、ポケモンを捕まえる要素を盛り込んだピンボール。持ち玉はもちろんモンスターボールで、玉や障害物もポケモンになっている。ボーナスステージなどもある。しかし、最大の特徴は本作に実装された電池駆動式の振動装置で、ゲーム画面上でポケモンの仕掛けにボールがヒットすると、そのたびにソフト本体がブルッと振動した。 | |||
『ポケモンピンボール ルビー&サファイア』(ゲームボーイアドバンス)/2003年8月1日発売 | |||
『ルビー・サファイア』に出てくるポケモンを扱った『ポケモンピンボール』。基本的なシステムは前作と同じ。 | |||
『ポケモンでパネポン』(ゲームボーイカラー専用)/2000年9月21日発売 | |||
スーパーファミコンで発売されていた『パネルでポン』(インテリジェントシステムズ開発)のシステムはそのままに、キャラクターを『金・銀』を中心としたポケモンに変更した落ち物パズル。 | |||
パズルゲームとしては評価は高いものの、登場するポケモンはごく一部であり、ゲームジャンルが異なる事もあり、ポケモンファンからはあまり支持を得られなかった。 | |||
日本国外では同じく『パネルでポン』のシステムを流用し、アニメ版のキャラクターを採用した『Pokémon Puzzle League』(ポケモンパズルリーグ)がNINTENDO64で発売されたが、日本では権利問題により未発売となった。 | |||
『ポケモントローゼ』(ニンテンドーDS)/2005年10月20日発売 | |||
ポケモンの顔をしたコマを縦か横に並べて消す(トローゼする)パズルゲーム。他の作品と打って変わりポップなキャラクターデザインが採用されている。ただしポケモン全種をコンプリートするのがかなり難しい。 | |||
『ポケモンピクロス』(ゲームボーイ・ゲームボーイカラー)/未発売 | |||
ポケモンのキャラクターを問題に採用したピクロス。1999年春に各ゲーム誌で画面写真が公開されたが、その後続報は無いまま発売されなかった。しかし1999年4月1日からニンテンドウパワーで供給されたスーパーファミコン用ソフト『ピクロスNP vol.1』にはポケモンの問題が10問程度収録されている。 | |||
レース | |||
ポケモンを使ったレースゲーム。 | |||
『ポケモンダッシュ』(ニンテンドーDS)/2004年12月2日発売 | |||
ニンテンドーDSの特徴である「タッチペン(スタイラス)」を使ったレースゲーム。画面にタッチペンをスライドさせる事でピカチュウをその方向にダッシュさせる事が出来る。また、「DSワイヤレス通信」を使用した通信対戦で、最大2-6人の対戦が可能。ただし、使えるキャラクターはピカチュウのみである。 | |||
さらに、レギュラーカップクリア後に、ニンテンドーDS本体に本ゲーム対応のゲームボーイアドバンス用ソフトも差し込めば、GBA用ソフトの手持ちポケモンのデータを送り込む事ができ、GBA用ソフトの手持ちポケモンの形をしたマップが登場する。 | |||
この作品において、映画版に先行登場したゴンベがゲームに初登場した。 | |||
その他関連商品 | |||
ポケモンカードゲーム(共通) | |||
ポケットモンスターをモチーフにした、トレーディングカードゲーム。プレイヤーをポケモントレーナーに見立て、ポケモン同士のバトルをトレーディングカードゲーム形式の対戦で再現している。 | |||
ポケモンずかんカード | |||
カードダスのブランドで発売されているカード。ゲーム要素は無い。 | |||
ポケモンバトルカードe+ | |||
『ルビー・サファイア』にゲストトレーナーを呼び込んだり、特殊なアイテムを手に入れるためのカードe+。12種類のパッケージが存在する。 | |||
ポケモンコロシアム ダブルバトルカードe+ | |||
『コロシアム』にバーチャルトレーナーを呼び込むカードe+。4種類のパッケージが存在する。 | |||
ポケモンバトルカードe+ ファイアレッド&リーフグリーン | |||
『ファイアレッド・リーフグリーン』のタイムアタック系イベント「トレーナータワー」を強化するカードe+。全44枚。読み込む枚数及び順番によりトレーナータワーの内容と賞品が変化する。 | |||
ポケモンバトルカードe+ エメラルド | |||
『エメラルド』の「トレーナーヒル」のタイムアタック系イベント「トレーナーヒル」を強化するカードe+。全66枚。概要は上記と同様だがマップ構造も変化させる。 | |||
ポケットピカチュウ | |||
ポケモンミニ | |||
ポケモーション | |||
バトルえんぴつ(バトエン) | |||
みつけてピカチュウ しっぽでバンバン | |||
CD「ポケモンサウンドトラック」シリーズ | |||
アニメ版ポケットモンスターシリーズの主題歌はたびたび一新されており、既にかなりの曲数に上っている。以下に挙げるCDもそのごく一部である。最初の主題歌『めざせポケモンマスター』は純粋なアニメソングとしては異例の185万枚のミリオンセラーとなった。 | |||
『めざせポケモンマスター'97』 | |||
『ポケモンサウンドトラック セレビィ時を越えた遭遇』 | |||
『ポケモンサウンドトラック 水の都の護神ラティアスとラティオス』 | |||
小説「ポケットモンスター The animation」シリーズ(スーパークエスト文庫) | |||
アニメの初代脚本家・首藤剛志氏著書の「小説版ポケットモンスター」。アニメ第一話~第七話までの内容がノペライズ化されている。現時点では、二巻まで発売されている。 | |||
『ポケットモンスター―The animation(Vol.1)』 ISBN 4094405410 | |||
『ポケットモンスター―The animation(Vol.2)』 ISBN 4094405429 | |||
ゲームブック「ポケットモンスター」(アスペクト・ファミ通ゲーム文庫) | |||
雑誌 小学館スペシャル「ポケモンワンダーランド」(不定期刊行) | |||
ポケモンが登場する作品リスト | |||
漫画 | |||
『ポケットモンスター』穴久保幸作 | |||
『ポケットモンスター R・S編』穴久保幸作 | |||
『ポケットモンスターSPECIAL』シナリオ:日下秀憲・作画:真斗→山本サトシ | |||
『電撃!ピカチュウ』おのとしひろ | |||
『ポケットモンスターアニメコミック サトシとピカチュウ』てしろぎたかし | |||
『劇場版ポケットモンスターAGスペシャルコミック 七夜の願い星 ジラーチ』大内水軍 | |||
『劇場版ポケットモンスターAGスペシャルコミック 裂空の訪問者 デオキシス』てしろぎたかし | |||
『劇場版ポケットモンスターAGスペシャルコミック ミュウと波導の勇者 ルカリオ』伊原しげかつ | |||
『ポケットモンスター PiPiPi★アドベンチャー』月梨野ゆみ | |||
『ポケットモンスター チャモチャモ★ぷりてぃ♪』月梨野ゆみ | |||
『ポケットモンスター金・銀 ゴールデン・ボーイズ』斉藤むねお | |||
『ポケットモンスタールビー・サファイア まんがで読む三ツ星攻略』日下秀憲・吉野恵美子 | |||
『ポケットモンスターエメラルド 挑戦!バトルフロンティア』伊原しげかつ | |||
『ポケットモンスター 4コマギャグ劇場』姫野かげまる | |||
『ポケットモンスター 4コママンガ劇場』向水遥他 | |||
『ポケットモンスター 4コマDX』山本まるみ | |||
『ポケットモンスター 4コマギャグバトル』 | |||
『ポケモン 4コマ笑事典』やましたたかひろ | |||
『ポケットモンスター 4コマ大百科』やましたたかひろ | |||
『ポケモン4コマまんが全集』春風邪三太 | |||
『ポケモンゲットだぜ!』あさだみほ | |||
『ポケモンカードになったワケ』姫野かげまる | |||
『まんが版 ポケットモンスター全書』中村里美 | |||
『めざせ!!カードマスター』印照 | |||
『ポケットモンスター おはなし超ひゃっか』 | |||
『ポケモンえにっき ポケモンじまのなかまたち』ふくやまけいこ | |||
『ポケモンダイヤモンドパール4コマ百科』松島リュウ | |||
『ポケモンだにへ ピカチュウのだいぼうけん』小北和哉・天野雅栄 | |||
『ポケモン不思議のダンジョン ギンジの救助隊』溝渕誠 | |||
『ポケットモンスターダイヤモンド・パール外伝 ポケモンDP』伊原しげかつ | |||
『ポケモン不思議のダンジョン 炎の探検隊』溝渕誠 | |||
『ピカチュウはめいたんてい』 | |||
『ポケモンコロシアム スナッチャーズレオ』大内水軍 | |||
『ポケモンXD 闇の旋風ダーク・ルギア スペシャルコミック』日下秀憲・三徳信彦 | |||
『出動!ポケモンレンジャー』あさだみほ | |||
Webコミック『Wミッションストーリー ポケモンレンジャー the Comic』日下秀憲・山本サトシ | |||
『ポケモンレンジャー“キャプチャ”マスターへの道』吉野恵美子・構成:十八VAN PLANNING | |||
『ポケモンバトル ピカチュウのわくわく大ぼうけん』あさだみほ | |||
『劇場版ポケットモンスターAGスペシャルコミック ミュウと波導の勇者 ルカリオ』あさだみほ | |||
『劇場版ポケットモンスターAGスペシャルコミック ミュウと波導の勇者 ルカリオ』日下秀憲・吉野恵美子 | |||
『ポケパーククイズ&パズル』上田未知 | |||
『ポケモン不思議のクイズダンジョン ぴかチャモ救助隊』上田未知 | |||
webコミック『ポケモン不思議のダンジョン 時の探検隊 闇の探検隊』杉森健 | |||
『劇場版ポケットモンスターDPコミック ディアルガVSパルキアVSダークライ』鷹岬諒 | |||
ゲーム | |||
大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ | |||
『ニンテンドーオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』(NINTENDO64) | |||
『大乱闘スマッシュブラザーズDX』(ゲームキューブ) | |||
『大乱闘スマッシュブラザーズX』(Wii) | |||
関連施設・イベント | |||
ポケモンのラッピングをした名鉄の快速特急電車(ミュースカイ号) | |||
ポケモンセンター - オリジナルも含め、数多くのポケモングッズを取りそろえるショップ。ポケモンのキャラクター戦略の拠点として、各国・各地の店舗やオンラインまで、多角的に展開する。名称の由来は、ゲーム内の都市や町に存在する施設「ポケモンセンター」(ひんしのポケモンを元気にしたり、他のプレイヤーとの対戦やポケモン交換をする施設)から来ている。 | |||
ポケモンセンタートウキョー(1998年4月25日開店)当初は八重洲に店舗を構えていたが、秋葉原に新しく設立された東京アニメセンターにも参入したため、浜松町に移転した。 | |||
ポケモンセンターオーサカ(1998年11月14日開店) | |||
ポケモンセンターナゴヤ(2002年10月11日開店) | |||
ポケモンセンターフクオカ(2003年11月1日開店) | |||
ポケモンセンターヨコハマ(2005年3月15日開店) | |||
ポケモンセンターサッポロ(毎年夏と冬に営業する季節営業店) | |||
ポケモンセンターニューヨーク(2001年11月16日開店。現在は任天堂総合ショップとしてリニューアル) | |||
ポケモンセンターオンライン(2001年3月21日開店 2006年11月30日休店) | |||
ポケモンセンターモバイル(2003年9月29日開店 2006年11月30日休店) | |||
ポケモンセンター夏まつり・冬まつり - 有名百貨店などで開かれる季節限定イベント。 | |||
ポケパーク - ポケモンの世界観をモチーフにした遊園地。2005年に名古屋、2006年に台湾で開催。名古屋での詳細はPokémon The Park 2005を参照。 | |||
ポケモンフェスタ - 小中高校の夏期休暇期間に開催される、ポケモン及び任天堂ハードゲームの展示ショウ等のイベント。携帯ハードゲームやカードゲームの公式大会等も行われる。 | |||
JR東日本ポケモンスタンプラリー○○○○(その年) - 小中高校の夏期休暇期間に開催される、JR東日本、東京の首都圏の駅を舞台としたスタンプラリー企画。1997年から開催(2001年除く)。名鉄など一部の私鉄でも実施。→スタンプラリーを参照 | |||
セブン-イレブンポケモンスタンプラリー○○○○(その年) - 2005年の夏から開催。セブンイレブンの店舗を回り、スタンプを集める。 | |||
ポケモン列車 - JR東日本が上記のスタンプラリーの一環として、山手線でポケモンのラッピングをした列車をほぼ毎年夏に運行しているほか、名古屋鉄道でも2007年の春から夏にかけて映画の宣伝キャンペーンのため、運行されていた。 | |||
ドミノ・ピザポケモンドミノキッズひろば - 2008年の春からイメージキャラクターとして起用。ポケモンのグッズがもらえるピザやクイズも登場。 | |||
ポケットモンスターに関する様々なニュース・出来事 | |||
日本 | |||
バンダイのアンケート | |||
ポケモンブームを象徴する出来事として、バンダイが1998年に実施した「好きなキャラクター」のアンケートで、ポケットモンスターが男児・女児共に第1位を獲得した。支持率は男児27.7%、女児27.4%。 | |||
ポケモンショック(別名:ポリゴン事件・ポケモンパニックなど) | |||
1997年12月16日(火)の18:51:34に、テレビ東京系で放送されたアニメ版ポケットモンスター第38話「でんのうせんしポリゴン」中の演出効果に激しく画面が明滅するものがあり、これを原因として同作の視聴者、主に幼児から中学生を中心として全国で500人以上(ビデオなどでの視聴者を含めると700人以上)が突然痙攣などの症状を起こし、病院に搬送されるという事態が起こった。この事件の詳細については、該当する項目を参照。 | |||
「ルージュラのクリスマス」 | |||
1997年12月23日に放送予定だったアニメ版幻の第39話。上記「ポケモンショック」で放送が一旦打ち切りとなり、後の放送再開時(翌年春)に第39話として放送されたのは「ピカチュウのもり」だった。「ルージュラのクリスマス」は、後に真夏に番外編として再放送され、ビデオにも短編映画と一緒に収録された。番外編とした理由としては「ポケモンショック」前に制作されていた「ルージュラのクリスマス」以降の話では、冬に放送予定だったため夏の放送では季節があわない事。他に主人公の手持ちポケモンの一匹ヒトカゲがそのまま登場しているが、放送再開後ポケモンショック後に製作された話を優先して放送し、ポケモンショック前に製作されたヒトカゲが登場する話の前に、ヒトカゲがリザードンに進化してしまい、ポケモンが進化前の状態に退化する設定は無い為つじつまが合わなくなったためだと思われる。同様の理由で番外編扱いとなったストーリーが他に3作ある。 | |||
ポケモン同人誌事件 | |||
アニメ版ポケットモンスターが人気絶頂の頃、同人誌即売会「コミックマーケット」(コミケット、コミケ)にて、ポケモンのキャラクターを用いた同人誌が販売された。この同人誌を偶然(異説有り。リンク先参照)入手した任天堂社員が本社へ報告し、問題の同人誌を入手した任天堂はイメージダウンにつながり、アニメなどのキャラクター戦略に影響すると考えたため、著作権法違反(複製権侵害)で京都府警に被害届を提出した。 | |||
通常なら容疑者の逮捕はその居住地域を管轄する地方警察が逮捕や取調べを行うことになっているが、このときは京都府警が容疑者である作家のもとに赴き、逮捕後京都まで容疑者を護送するという異常事態が起こったのである。そして当該同人作家は起訴され、罰金が科せられた。この事件については真偽不明の様々な噂が流れ、インターネット上の掲示板などを中心に騒ぎが起こった。 | |||
世界的人気順位に関する話題 | |||
テレビ朝日の『決定!これが日本のベスト』の統計によれば、ポケモンは日本国外で2位の人気だと言われている。 | |||
日本国外 | |||
日本以外でポケットモンスターと呼ばない理由 | |||
アメリカで『Monster in My Pocket』という商標が既に登録されていた為、多くの国々ではタイトルの省略形「ポケモン(POKÉMON)」を採用した。日本国内版においても「ルビー・サファイア」以降は英語表記がそのようになっている。なおÉの上のアクセント記号はこのEが黙字でなく発音をもつEであることを表す。しかしそれでも、英語ではアクセントのない母音を「エ」と発音することは難しいため「ポキモン」と発音されることが多かった。その為、日本国外の担当者が任天堂に「POKÉMON」の発音を教わることが多く、結果として日本国外での「ポケモン」の発音は関西訛りになった。 | |||
ただし、一般消費者は今もなお「ポキモン」と発音していることが多い。 | |||
この他、英語圏(特にアメリカ)においては、「ポケット」という単語に男性器を連想させるニュアンスがあるため、「ポケットの化け物」では子供の遊ぶ健全なゲームのタイトルとしては不適切である、という判断も変更理由の1つと言われる(「ポケットモンスター」自体が卑猥なスラングとして使われているわけでは無く、「ポケット」は「ポケットに入るくらいのサイズ」という意味なので誤解無きよう)。 | |||
中国語においては意訳が採用されており、台湾では『神奇寶貝』(訳: 不思議な宝物/赤ちゃん)、香港では『寵物小精靈』(ペット妖精)である。正式に翻訳される以前は、『口袋怪物』等の直訳が用いられることもあった(口袋はポケットの意)。 | |||
日本国外展開 | |||
「ポケットモンスター」は1998年にE3に出展(一部のポケモンの名称が製品版と異なる)。同年9月7日にアメリカでTVアニメの放送がスタートし、同28日にゲームボーイソフト「POKÉMON」が価格29ドル95セント、星条旗の色と同じ「赤」と「青(ただし、内容は緑と同じ)」の発売を開始。これを皮切りに、各国でTVアニメの放送とソフトの発売を開始。英語版YELLOW(和名:ピカチュウバージョン)はゲームソフトにおけるミリオンセラーの最短記録としてギネス・ワールド・レコーズに載った。 | |||
1999年11月12日に劇場映画「Pokémon The First Movie」(日本版名:ミュウツーの逆襲)が、全米3000館で公開され興行収入8000万ドル、その他の国々で9100万ドルを記録した。この作品のサウンドトラックCDは初回出荷枚数100万枚、全米チャート8位を記録。続編も順次公開されている。 | |||
アメリカで「ポケットモンスター」がアニメとして広く受け入れられた理由としては、(アメリカ人から見て)「ポケットモンスター」がアメリカのカートゥーンのようにシンプルなストーリーの作品であること、ゲームソフトとのメディアミックスが功を奏したこと、オリジナルの日本版から日本的なものを差し替えるなどして日本色を薄めたことなどが挙げられる。一方、アメリカの大人のアニメファンからは厳しい評価が下されている。 | |||
日本国外版のゲームソフト | |||
北米版ではポケモン名・地名・人名などは英語に直された。民家の仏壇が「ディグダの像」に、アイテムの「饅頭」「煎餅」が「キャンディバー」「クッキー」になるなど日本的なものは差し替えられることが多い。なお、北米版に続き各国で発売されたソフトは英語名を元にしている部分が多々ある。 | |||
ゲーム内容はほぼ変化はないが、『金・銀』で一部ポケモンの出現種が異なったり、『ポケモンコロシアム』ではボーナスディスクでの入手ポケモンが差し替えられている。 | |||
GBソフトである『金・銀』までは名前文字数の関係からか日本国外版との通信は正常に働かないが、GBAになりデータ形式が一新された『ルビー・サファイア』からは日本国外版との通信が可能となっている(→増田部長のめざめるパワー(2004年8月6日))。一部の通信では一時的に文字化けすることが確認されているが問題はない。『ポケモンコロシアム』でのボーナスポケモンは日米で異なるが、これはポケモンの特長である通信交換を世界規模で行って欲しいという考えの表れとも考えられる。 | |||
ニンテンドーDSの『ダイヤモンド・パール』では、異なる言語のソフトで手に入れたポケモン(2007年7月末現在本作の北米版・欧州諸国版が発売されているが、国外版の『ルビー・サファイア』等で手に入れたポケモンでも可。ただし全てのポケモンではなく特定の種族に限る)を通信で手に入れると、ポケモン図鑑にその言語での解説文が追加される。ニンテンドーWi-Fiコネクションを利用した世界規模の通信が可能であることもゲーム内で示唆されている。 | |||
ただし、現時点で異なる言語のソフトと通信可能なケースはGBA版(ルビー・サファイア・エメラルド・ファイアレッド・リーフグリーン)同士、DS版(ダイヤモンド・パール)同士の場合のみである。データ自体に互換性は存在しても、GBAケーブルやニンテンドーDSのダブルスロット機能を利用したデータのやりとりは行えない。例えば前述のように日本版のポケモン図鑑に他言語解説を追加する場合、海外版GBAソフト→日本版GBAソフト→日本版『ダイヤモンド・パール』、または海外版『ダイヤモンド・パール』→日本版『ダイヤモンド・パール』という手順でポケモンを送らなくてはならない。 | |||
CESAとの関係 | |||
第1回CESA大賞(現・日本ゲーム大賞)にて、社会現象を起こすほどの知名度等から大本命視されながら、コアユーザーの組織票(選考基準に大きく関わる)等により大賞を逃してしまった(このときの大賞はセガサターンの「サクラ大戦」。意外に思われるが、ポケモンは無冠である)。それ以来、大賞等の選考基準等に不透明さが残っている。そのため、いまだにゲーム雑誌等で批判が残っている。また、2007年9月現在、ポケモンシリーズの作品で高位の賞を受賞した作品は一本もない。 | |||
ポケモンショック直後、CESAがこの事件に関して一切関与しないというコメントをしたことは特筆事項である。 | |||
東京ゲームショウ(CESA主催(日経BP協賛))開催当時から、任天堂は参加には消極的であったが、ポケモンショック以降、ポケモン関連作品が高位賞に受賞しない等、任天堂と業界団体ともシコリを残していたが、近年、JAPAN国際コンテンツフェスティバルをはじめとした経済産業省管轄のイベントへの出展が多く、東京ゲームショウへの参加も期待されていたが、結局は参加は見送られた。 | |||
その他 | |||
作品中の名前などの由来 | |||
各作品中の固有名詞は、例えば『赤・緑』系、『金・銀』系では各街の名前が色の呼び名(特に日本語での古式ゆかしい名称)で統一されているなど、何らかのコンセプトに沿って命名されている。なお『赤・緑』系のスタート地点となる町「マサラタウン」は、「何色にも染まっていない汚れなき色」という意味で「まっさら」から付けられている。 | |||
また同じくジムリーダーなど主な登場人物の人名は、主に花などの植物の和名をアレンジしたものがつけられている。オーキド博士も英語のorchid(オーキッド:蘭)、ナナカマド博士もナナカマドからきていると思われる。 | |||
ポケモンの舞台となっているカントー地方、ジョウト地方、ホウエン地方、シンオウ地方は、それぞれ関東地方、東海~関西地方、九州地方、北海道地方がモデルになっている。 | |||
ポケモンおじさん | |||
2000年頃にかけてポケモン関連のテレビCMにレギュラー起用されていた綿引勝彦は当時、ファンの間から「ポケモンおじさん」と呼ばれていた。もちろんそれは広告戦略上の役作りの結果であるのだが、ヤクザ映画やNHK大河ドラマにも多数出演している強面の綿引がポケモンゲームにはまっていく様子を愛嬌たっぷりに描いたCM群は、当時大きな話題を呼んだ。 | |||
『ピカチュウげんきでちゅう』TVCM(1998年末、綿引初登場) | |||
『ポケモンスナップ』TVCM(1999年春) | |||
この時の綿引を再起用したことにより、「ポケモンおじさん」というキャラクターが明確になっていく。 | |||
『ポケモンスタジアム金銀』のCMを最後に担当が替わり、『ルビー・サファイア』では別のタレントが起用された。 | |||
ポケットモンスターに関する様々な逆風 この節の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。 | |||
ポケモンが人気になる一方、様々な思想との間で批判や衝突も起きている。日本国外では、思想や宗教感の違いによるものも起きている。 | |||
日本 | |||
ポケモンショック等をきっかけとしたCESAとの対立。 | |||
都内小学校などで、「ポケモンバトル」と称して常々いじめられる者同士を喧嘩させる等のいじめの様式が報告され、教育上好ましくないというレポートが提出された(結局、「ポケモン」の社会的好感度が上昇傾向にあった時期だったのと、いじめ自体が問題ではあっても、ポケモンそのものがいじめを誘発しているとは言い難いので、事実上立ち消えとなった)。 | |||
1990年代後半以降の小学生男子は、半ズボンの着用をやめ、ハーフパンツを着用しているが、敢えて半ズボンを着用しようとした者が現れた場合、自薦の用心棒が現れて「短パン小僧」の呼称で嘲笑し、半ズボン着用をやめさせる(東京新聞1999年5月20日)。半ズボン復活の立場に立つ者が、広報部を通して任天堂商品開発部に抗議を申し入れた。 | |||
様々なゲームの中でも群を抜くバグの多さが一部で話題となり、アイテムの増殖や本来覚えることが出来ない技をポケモンに覚えさせるなどのゲームバランスを大きく崩す裏技がネット上に氾濫した。その多くはセレクトボタンを使用することから、2ちゃんねるなどでは「セレクトボタンを押せば何かしらバグるゲーム」と揶揄される一方、敢えてバグを楽しむプレーヤーも現れた。(但し、出荷ごとにバグフィックスを行うなど、適切な企業努力は行われている。後期出荷のものはほとんどバグが発生しない。また、GBA世代からは、外部からのパッチによるバグフィックスが可能となっており、実際に適用された例もある) | |||
埼玉トヨペットのタイアップ企画で「ポケモンカー」を展示しているが、同車を展示している展示場に渡ろうと横断歩道の無い道路に飛び出した子供が轢かれて死亡するという事故が発生した。 | |||
日本国外 | |||
「ポケモンは、悪魔召喚を連想させる」との意見がある。たとえば、日本人は悪霊でも祀ることがあるが(菅原道真公など)、厳格なキリスト教徒にとっては悪魔の存在は禁忌である。 | |||
エスパーポケモン「ユンゲラー」に対し、ユリ・ゲラーが名誉毀損として提訴。スプーンを曲げる超能力系キャラとして、自分のイメージを勝手に使われたとして抗議。このとき、任天堂側の弁護士が機転を利かし、裁判中「このキャラクターは超能力が使えます。もし貴方とこのキャラクターが似ているというなら是非ここで超能力を使ってみてください」と冗談と皮肉を混ぜた口上でユリ・ゲラーを沈黙させ、結局すぐに控訴を取り下げた、と言われている。これの影響からか、ポケモンカードe~ポケモンカードゲームまでは、「ケーシィ・ユンゲラー・フーディン」の進化系列が収録されていない。ポケモンカードゲームDP拡張パック第2弾「湖の秘密」で、数年ぶりにケーシィ・フーディンが収録された。しかしユンゲラーのみ収録されず、代わりというように、ケーシィはユンゲラーをとばしてフーディンに進化できるワザを覚えていた。 | |||
ひとがたポケモン「ルージュラ」の黒い皮膚や大きな唇が黒人差別を助長するという批判を受け、(制作スタッフが人種差別を意図していないにもかかわらず)海外版のポケモンアニメでは「ルージュラのクリスマス」のエピソードが欠番扱いとなった。(en:Pokémon episodes removed from rotation参照)この件を受けてファイアレッド・リーフグリーン以降公式的に肌の色は黒色からあずき色に変更された。 | |||
ポケモンカードの「キョウ秘伝、変わり身の術」日本版に描かれている卍(まんじ)の文様がナチス・ドイツの鍵十字を連想させるとして、アメリカのユダヤ人団体からクレームがつけられ、回収騒動が起きた。輸出版からは誤解を避けるために卍が削除されていたが、アメリカのポケモンマニアがオリジナルである日本版を欲して輸入したため、日本の文化を理解せずクレームがついたためと言われる。 | |||
日本からポケモンカードのプレミアカード(生産数がレアカードより更に少なく、大変希少価値がある)を空輸した際、空港からの輸送をシークレットサービスが行なった。これも世界各国でのポケモン人気が高まり、また上記の様なポケモンカードが関連した事件が発生していた為に行なわれたと思われる (ただし、わざわざ空港でシークレットサービスの担当者が箱からカードを取り出し、マスコミの前にカードをさらす様な事をしていたのでデモンストレーションの可能性もある)。 | |||
アメリカのアニメ番組『サウスパーク』で本作をパロディ化した話「チンポコモン」が1999年に放送された。強烈な諷刺が込められた話で、前述のポケモンショックをもネタに取り込んでいる。 | |||
1998年頃、ピカチュウの虐待画像などを公開する「ポケモン虐待」サイトが登場。日本のメディアにも取り上げられる。 | |||
イスラム諸国 | |||
2001年にイスラーム原理主義的な思想の色濃いサウジアラビアの法学者が、ポケモンをハラーム(禁忌。心を悪くする行為の意)であると宣言して以来、イスラーム諸国にはポケモンの可否をめぐる論争が飛び火した。更にマレーシアなどでもポケモンが反イスラームではないかと保守派ムスリム法学者から疑われるようになった。更には一部で『ポケモンはシオニズムの宣伝メディアであり、イスラム教徒をユダヤ教に改宗させようとするたくらみの一環である。』『「ポケモン」とは「私はユダヤ人である」の意味である。』『「ピカチュウ」とは「ユダヤ人になれ」の意である。』などと全く根拠の無いデマまで広まった。 最終的にドバイなどイスラーム保守派に支配された諸国ではポケモンを反イスラーム的と認定し、ゲームやグッズの販売制限を行った。また騒動の発火点であるサウジアラビアやカタールではポケモン自体がハラームとされ全面禁止された。 サウディアラビアの法学者がポケモンをハラームとし、保守派ムスリムがそれに賛同している理由は、 | |||
ポケモンの後天的形態変化は生物学では『変態』と呼ばれるものであるが、ポケモンではこれを『進化』と呼んでいる。進化論は保守派イスラームからはコーランの無謬性を汚すとしてハラーム扱いを受けており、このため彼らからすればポケモンもハラームとされる。 | |||
賭博はイスラームではハラームであるが、カードを交換しながら揃えていくというポケモンカードゲームのやり方が保守的ムスリムからは賭博であるとみなされる。 | |||
エスパーポケモンやゴーストポケモンなどが悪魔や魔法使いを連想させる。 | |||
ダビデの星などシオニズムを示唆するものや十字架などキリスト教のシンボルがある。これは『ポケモンはイスラーム教徒を堕落させようとする試み』という前述の全く根拠の無いうわさが広まる原因ともなった。 | |||
などがあげられている。 | |||
トルコでは子供が自分のことを『ポケモン』と錯覚しバルコニーから飛び降りて怪我をしたため、一時アニメの放映が中断された。 | |||
事件・事故 | |||
アメリカでポケモンカードのレアカード(生産数が少なく入手が困難なカード)を奪われたとして、奪われた子供の兄がカードを奪った子供を射殺(*この件については、概要のみ把握、詳細は把握せず)。 | |||
子供がモンスターボールを模ったカプセル型の玩具を口に当てて遊んでいた所、鼻と口を塞がれて窒息死した。世界各国でのポケモン人気が高まっていた頃の事件だったために注目を集め、ニュースで取り上げられたものと思われる。 | |||
アメリカ人の子供がベランダで、「僕は鳥ポケモンだ、空も飛べるんだ」と叫んで飛び降り、その子供は死亡(その後の詳細不明)。尚同様の事件はトルコでも発生した。こちらは10歳の女の子で、大怪我をしたものの命に別状は無く、助かっている。 | |||
アメリカの中学生が「ピカチュウの電気ショックを体験してみたい」と言って針金をコンセントの穴に入れて気絶。命に別状は無かったが、同様の事件の発生を防ぐためアメリカで報道された。 | |||
stripovi, TCG, igračke, knjige i razni drugi mediji. Ime Pokémon skraćenica je japanske izvorne riječi ポケットモンスター Poketto Monsutā (ili "Pocket Monsters" na engleskom i "Džepna čudovišta" na hrvatskom jeziku) te je kao takva, veoma česta u Japanu. U početku, Nintendo je doslovno preveo Poketto Monsutā – i, doista, "Pocket Monsters" videoigra ubrzo je nastala iste 1995. godine. 1996. godine dolazi do konflikta u Nintendu te uvjetuje promjenu imena iz "Pocket Monsters" u "Pokémon". Glavna fraza igre u japanskoj verziji bila je ポケモンGETだぜ! (Pokémon Getto Daze! – Let’s Get Pokémon! – Uhvatimo Pokémone!); u engleskoj verziji glasila je "Gotta catch 'em all!" ili na hrvatskom "Moraš skupit' sve!". Doduše, danas se te fraze više ne koriste jer je broj Pokémona od prvotnih 150 dostigao zavidnu brojku od 493 Pokémona, te bi bilo nemoguće pohvatati ih sve u samo jednoj igri (osim ako se ne koriste šifre i kodovi). | |||
Ideja Pokémon sage temelji se na hobiju skupljanja kukaca, popularnoj razonodi u kojoj je tvorac Pokémona, Satoshi Tajiri, uživao kao dijete. Tajirijeva formula prošla je u Japanu te je ubrzo prilagođena (i prevedena) 1998. za američko tržište, puštanjem videoigara Pokémon Red i Blue. Ove igre dopuštale su igračima da pohvataju, skupljaju i treniraju stotinu neobičnih bića, poznatih kao Pokémoni; i jedne protiv drugih koristiti u borbama povećavajući njihovu snagu. Ti bi Pokémoni zatim "evoluirali" u snažnije Pokémone, istodobno učeći snažnije napade i tehnike. Pokémoni nikada ne krvare ili umiru u bitkama, samo oslabe, ponekad do granice da se onesvijeste – ovo je za Tajirija bilo veoma osjetljiva tema jer nije htio popuniti svijet igara s još "besmislenog nasilja". | |||
Pokémon je skupno ime za sve fiktivne vrste u Pokémon svijetu. Do danas, franšiza je dosegla zavidnu brojku od 493 jedinstvenih vrsta u kojima leži bit cijelog projekta te se broj Pokémona bitno povećao od prvobitnih 150 džepnih čudovišta u početnim verzijama videoigara, Pokémon Red i Pokémon Blue. Riječ Pokémon odnosi se na svakog Pokémona, doduše, u engleskom jeziku riječ ostaje nepromijenjena i za jedninu i za množinu. U hrvatskom jeziku, jednina glasi Pokémon, a množina Pokémoni. Svaka vrsta Pokémona ima svoje ime te se to ime koristi za jedinke te vrste kao i za cjelokupno ime vrste (npr. Cyndaquil – Cyndaquili, Bulbasaur – Bulbasauri).Sadržaj | |||
1 Pokémon generacije | |||
1.1 Prva generacija | |||
1.2 Druga generacija | |||
1.3 Treća generacija | |||
1.4 Četvrta generacija | |||
2 Načela igara | |||
2.1 Početni Pokémoni | |||
2.2 Pokédex | |||
2.3 Razmjena i borbe | |||
3 U drugim medijima | |||
3.1 Animirana serija | |||
3.2 Trading Card Game | |||
3.3 Pokémon manga stripovi | |||
4 Kulturni utjecaj | |||
5 Kontroverze i kritike | |||
5.1 Okrutnost prema životinjama | |||
5.2 Zdravlje | |||
6 Videoigre | |||
6.1 Prva generacija | |||
6.2 Druga generacija | |||
6.3 Treća generacija | |||
6.4 Četvrta generacija | |||
7 Animirani serijali | |||
8 Povezani članci | |||
Pokémon generacije | |||
Prvotne Pokémon videoigre bile su japanske RPG igre s elementima strategija te im je tvorac Satoshi Tajiri koji ih je namijenio igranju na Game Boyu. Ove videoigre, njihovi nastavci, remake verzije te prijevodi na engleski jezik i dalje se smatraju "glavnim" Pokémon videoigrama, videoigre na koje se odnose fanovi kada koriste izraz "Pokémon videoigre". Sveukupno, prodano je 143 milijuna kopija Pokémon videoigara (uključujući i njihove odgovarajuće konzole), što Pokémone čini drugom najbolje prodavanom franšizom ikad, nakon Nintendova Super Maria. | |||
Sva licencirana Pokémon svojstva nadgledana od tvrtke The Pokémon Company strogo su podijeljena na generacije. Postoje tri generacije, koje su definirane Pokémonima koji se u njoj pojavljuju, s četvrtom u izradi. Svaka od ovih generacija prvi je put uvedena s po dvije Pokémon videoigre za Game Boy konzole i njegove nasljednike (uključujući i Nintendo DS), počevši s (u većini zemalja) Pokémon Red i Blue i njihovom remake verzijom Pokémon Yellow za prvu generaciju, zatim Pokémon Gold i Silver s njihovom remake verzijom Pokémon Crystal. Nakon toga došle su Pokémon Ruby i Sapphire, praćene s Pokémon FireRed i LeafGreen, remake verzijama prvotnih igara te Pokémon Emerald, remake verzijom treće generacije igara. | |||
Ove generacije strogo su kronološki podijeljene distribucijom; velik broj Pokémona iz sljedećih generacija pojavljuje se u animiranim serijama, manga stripovima ili TCG-u prije nego što se Game Boy videoigre koje označuju tu generaciju puste u prodaju, ali animirane serije i manga stripovi podijeljeni su po sagama i generacijama po istoj shemi kao i videoigre. | |||
Prva generacija | |||
Kutija Pokémon Blue igre | |||
Prva je generacija započela s Pokémon Red i Blue videoigrama. Prva generacija predstavila je prvotnih 151 Pokémona (od Bulbasaura do Mewa), kao i osnove borbama Pokémona. U Japanu, prva je generacija uključivala Pokémon Red, Green i kasnije Blue (s promjenom crteža Pokémona i podlogom u spiljama) verzijama, dok su druge zemlje započele s Red i Blue verzijama (obje su sadržavale obnovljene elemente), ali nikada nisu dobile Green verziju. | |||
Ova je generacija kompletirana igrom Pokémon Yeloow: Special Pikachu Edition, koja je slabo povezana s Pokémon animiranom serijom, u kojoj igrač započinje s Pikachuom koji odbija ući u svoju Poké loptu, umjesto toga prateći trenera/igrača u stopu. Okrenuvši lice svom Pikachuu, igrači bi otprilike mogli prosuditi koliko ih njihov Pokémon voli. Ovi i još neki elementi slični su animiranoj seriji. Programeri su izmijenili pojavljivanja nekih trenera i Pokémona da bi igra što više nalikovala animiranoj seriji, uključujući i pojavljivanje Jessie i Jamesa, poznate članove Tima Raketa u glavnoj priči igre i animirane serije. Jessie i James koriste svoje potpisne Pokémone (Koffing, Ekans i Meowth). Koffing i Ekans poslije evoluiraju u Weezinga i Arboka, ali Meowth ne evoluira. | |||
Ove verzije igara okretale su se oko Kanto regije, ali se pravo ime te regije nije znalo do puštanja druge generacije. Prva je generacija isto tako upoznala igrače s idejom glavnog protivničkog trenera kojeg igrač susreće nekoliko puta tijekom igre, kao i s timom zlih Pokémon trenera. | |||
Ove su igre bile kompatibilne s N64 igrama Pokémon Stadium i Pokémon Stadium 2. Remake verzije prvih dviju Pokémon videoigara, zvane FireRed i LeafGreen, puštene su u prodaju u trećoj "Advance" generaciji. | |||
Druga generacija | |||
Cyndaquil i Totodile tijekom borbe u Pokémon Crystal igri | |||
Počevši s Pokémon Gold i Silver videoigrama, druga je generacija Pokémona donijela novih stotinu Pokémona (od Chikorite do Celebija), povisujući broj Pokémona na 251, te je donijela novu Johto regiju. Inovacije su uključivale i GamBoy Color IR priključak za dobivanje "Mystery Gift", sustava izmjene dana i noći, koncepta biljaka koje su aktivno rasle i rađale Bobice (predmeti s posebnim iscjeljivim moćima) i Aprikorne (za pravljenje posebnih Poké lopta). U ovoj igri, igrač je mogao promijeniti svoju sobu i promijeniti je prema svom ukusu, kao i uzgajati Pokémone. Uzgajanje Pokémona bio je (i ostao) jedini način dobivanja Pokémon Beba (novu klasu Pokémona). Istodobno, uvedena su dva potpuno nova tipa; Mračni i Čelični tip Pokémona. Čak su i sami Pokémoni dobili neka drukčija svojstva, a jedna od najznačajnijih promjena jest da su Pokémoni sada dobili spolove. Prije, jedini Pokémoni koji su imali točno određen spol bili su oni iz obitelji Nidoran, koji imaju neobično velik oblik spolnog dimorfizma. Još jedna značajna, iako manja, izmjena jest da su NPC treneri dobili imena uz njihov običan naslov. | |||
Ova igra uvela i je novi alat zvan Pokégear, uređaj koji je igraču koristio kao mobitel, radio, karta i sat. Funkcija mobitela korištena je da bi igrač komunicirao s NPC trenerima u igri zbog potencijalnih revanš borbi. Radio stanice koje su bile odabrane utjecale su na Pokémone koji su mogli biti nađeni u divljini. Postojala je i jedna stanica koja je igraču govorila gdje se mogu pronaći određeni Pokémoni. Sat je uključivao vrijeme i dan u tjednu, a majka protagonista mogla ga je promijeniti iz Standardnog (Zimskog) u Dnevno (Ljetno) računanje vremena. Poznavajući vrijeme uvelike je pomagalo igraču jer su se mnogi Pokémoni pojavljivali u točno određeno vrijeme, a neki su se Pokémoni razvijali u točno određenom dijelu dana (Espeon i Umbreon iz Eeveeja, ovisno o danu ili noći), dok su se neka događanja odvijala u točno određenim danima tjedna. Sunce je sjalo od 6 ujutro do 6 navečer, a ostatak vremena bila je noć. | |||
Ova je generacija kompletirana izlaskom Pokémon Crystal videoigre u prodaju, koja je bila jedina ekskluzivna Game Boy Color Pokémon igra, i jedina koja je igraču dopuštala da izabere svoj spol (inače, do izlaska ove igre, i djevojčice i dječaci u igri morali su biti muškog spola jer nije bilo izbora). Isto tako, bila je prva igra koja je prikazivala animirane Pokémone (Pokémon bi izveo neku animaciju ili kretnju kada bi ga igrač susreo u divljini ili kada je pušten iz Poké lopte) i tekst na ekranu koji je najavljivao da je igrač ušao u novu lokaciju. Crystal verzija modificirala je pronalazak triju Legendarnih pasa, u kojoj je igrač na kraju susreo Suicunea i dobio mogućnost uhvatiti ga. Doduše, ostalo dvoje igrač je morao pronaći na normalan i teži način (nasumičnim susretima u divljini). | |||
Treća generacija | |||
Kutije Pokémon Ruby i Sapphire igara | |||
Počevši od Pokémon Red i Blue igara, Pokémon Ruby i Sapphire dodale su još 135 novih Pokémona iz Hoenn regije, kao i Pokémon naravi (25 različitih tipova osobnosti Pokémona), 76 Pokémon sposobnosti (posebne sposobnosti koje Pokémon može koristiti u bilo koje vrijeme), Poké Kockice i Pokémon Izložbe te borbe Pokémona dva na dva. Doduše, ova je generacija izgubila izmjenu dana i noći, kao i kalendar, iako u igri postoji sustav koji prati vrijeme i Pokémoni koji se pojavljuju i evoluiraju samo u određeno doba dana. Ove su verzije uvele i mogućnost uzgajanja Pokémon bobica na određenim mjestima, te je svaka imala svoju vremensku duljinu rasta i cvjetanja, kao i mogućnost pravljenja "Tajnih baza" u drveću i špiljama u koje igrač može smjestiti Pokémon lutke, stolove, stolice, biljke kao i druge stvari. | |||
Mnogi novi Pokémoni ove generacije bili su predmeti kritika, iz razloga što previše nalikuju na Pokémone iz ranijih generacija (primjeri su Butterfree i Beautifly, Seel i Spheal, Kingler i Crawdaunt) ili ne nalikuju na "životinje" poput ostalih (Regirock, Regice, Registeel i Mawile). | |||
Torchic i Mudkip tijekom borbe u Pokémon Emerald igri | |||
Treća igra bila je Pokémon Emerald, koja je nadogradila PokéNAV Trenerovim očima, koje su slične mobitelu u prethodnoj generaciji (ali malo modificiran, jer su igrači sada mogli primati pozive od Vođa dvorana koji su od njih mogli tražiti revanš do četiri puta, no igrači nisu mogli brisati brojeve NPC trenera). Emerald verzija doživjela je povratak Pokémon animacija nakon susreta s divljim Pokémonima. Sve tri verzije mogle su se igrati na Game Boy Advance konzolama. | |||
Ova je generacija zaokružena igrama Pokémon FireRed i LeafGreen namijenjenima Game Boy Advance konzolama. To su remake verzije prvih dviju Pokémon videoigara, koje su uključivale i izbor igračeva spola, nove predmete i regije, instruktore napada, kao i sve vrline druge i treće generacije, isključujući sustav izmjene dana i noći i (osim u Japanu) kompatibilnost s e-čitačem. | |||
Svih pet igara kompatibilne su s programom pohranjivanja Pokémon Box: Ruby & Sapphire za Nintendo GameCube, kao i s Pokémon Colosseum i Pokémon XD: Gale of Darkness igrama. Ta je igra predstavila pustinjsku regiju Orre, kao i iskvarene Shadow Pokémone, i sposobnost "Otimanja"; sposobnost krađe/spašavanja Pokémona od njihovih zlih trenera i na kraju, "pročistiti" njihova srca. | |||
Ne nalik igrama druge generacije, treća generacija nije kompatibilna s prethodnim igrama u seriji, zbog hardverskih ograničenja. Zbog ovog problema, mnogi su Pokémoni postali nedostupni, no situacija je ispravljena puštanjem igara Pokémon Colosseum, Pokémon FireRed i LeafGreen te Pokémon Emerald. Pokémoni poput Celebija i Mewa, dostupnih samo putem Nintendovih sponzoriranih događaja, morali su ponovno biti podijeljeni. | |||
Četvrta generacija | |||
Promotivna kutija Pokémon Diamond igre | |||
Četvrta generacija započela je puštanjem videoigara Pokémon Diamond i Pearl za Nintendo DS konzolu. Kako se primicao datum puštanja igara u prodaju, puštane su i neke sporedne igre, poput Pokémon Mystery Dungeon i Pokémon Ranger, koje su trenutačno puštene u Japanu od jeseni 2005. i rane 2006. Pokémon Mystery Dungeon otada je stigla u Ameriku, a Pokémon Ranger pušten je u prodaju 30. listopada 2006. Mnogo Pokémona iz ove generacije, poput Munchlaxa i Weavilea, imalo je sporedna pojavljivanja u sedmom i osmom Pokémon filmu (Pokémon: Destiny Deoxys i Lucario and the Mystery of Mew), kao i u Pokémon XD: Gale of Darkness i prije spomenutim igrama. | |||
Zla organizacija ovoga puta zove se Tim Galaxy. Što se igara tiče, sustav izmjene dana i noći vratio se, s dva nova doba dana (zalazak i kasna noć), a razlike u spolovima očitije su, s malo modificiranim grafičkim znakovima Pokémona ovisno o spolu (ženke Butterfreeja imaju drukčije oznake na donjim krilima, ženke Woopera imaju kraća ticala od mužjaka, ženke Scizora imaju veći trbuh u usporedbi s mužjacima). Igre su kompatibilne s igrama treće generacije. | |||
Pokémon Diamond i Pearl u Japanu su puštene u prodaju 28. rujna 2006. | |||
Načela igara | |||
Prvotne Pokémon igre bile su japanske RPG igre s elementima strategije, a kreirao ih je Satoshi Tajiri za Game Boy konzolu. Ove se igre (i njihovi nastavci, remake verzije i prijevodi na engleski jezik) i dalje smatraju glavnim Pokémon igrama, i igre su na koje se mnoge igrači odnose kada spominju termin "Pokémon igre". Ove su se igre prodale u 100 milijuna kopija. Ovo ih čini drugom najprodavanijom igraćom franšizom, nakon Nintendove serije Super Marija. | |||
Prve igre u seriji bile su Pokémon Red i Blue (Red i Green u Japanu, praćene s Blue verzijom, a kasnije posebnim izdanjem Yellow verzije). Sve su igre gotovo identične, osim činjenice da je svaka igra imala izabranu grupicu Pokémona koja se nije pojavljivala u drugim verzijama. Glavni cilj ovih igara bio je uhvatiti bar jednog člana od svake 151 vrste Pokémona, iako je 151. mogao biti uhvaćen samo kroz posebne promocije (ili kroz zastoj u svim igrama prve generacije). Iako borba s čudovištima nije ništa novo za igre RPG žanra, mnogi igrači postaju gotovo ovisni o traženju, borenju i hvatanju svakog Pokémona u igri. Još jedan, vjerojatno lakši, cilj bio je postati Prvak Pokémon lige. Neke se Pokémone, poput Mewtwoa, moglo uhvatiti samo na taj način. Ovo se moglo izvršiti nakon prikupljanja svih osam bedževa pobjeđivanjem svih Vođa dvorana, te pobjeđivanjem Elitne četvorke i trenutačnog prvaka. | |||
Početni Pokémoni | |||
Jedan od dosljednih aspekata svih Pokémon igara – od Pokémon Red i Blue za Nintendo Game Boy, do igara Pokémon Diamond i Pearl za Nintendo DS konzole – izbor je tri različita Pokémona na početku igračeve avanture; ta tri Pokémona etiketirana su kao Početni (ili starter) Pokémoni. Igrač može birati između Vodenog, Vatrenog ili Travnatog Pokémona, autohtonog za to područje; iznimka od ovog pravila je Pokémon Yellow (remake verzija prvotnih igara koja prati priču Pokémon animirane serije), gdje igrač dobiva Pikachua, Električnog miša, poznatog po tome što je maskota Pokémon medijske franšize. | |||
U Pokémon Red i Blue i u njihovim remake verzijama Pokémon FireRed i LeafGreen, tri izbora jesu Bulbasaur, Pokémon sjemenka, Charmander, Pokémon gušter, i Squirtle, Pokémon malena kornjača, dok je u posebnom izdanju Yellow verzije, početni Pokémon Pikachu, Pokémon miš. U Pokémon Gold, Silver i Crystal izbori jesu Chikorita, Pokémon list, Cyndaquil, Pokémon vatreni miš, i Totodile, Pokémon velike čeljusti. U Pokémon Ruby, Sapphire i Emerald izbori jesu Treecko, Pokémon macaklin, Torchic, Pokémon pile, i Mudkip, Pokémon riba skokunica. U Pokémon Diamond i Pearl izbori jesu Turtwig, Pokémon mladica, Chimchar, Pokémon mladi majmun, i Piplup, Pokémon pingvin. | |||
Dvije Pokémon igre namijenjene igranju na GameCube konzoli, Pokémon Colosseum i Pokémon XD: Gale of Darkness, dvije su iznimke Travnatog-Vatrenog-Vodenog pravila. U Pokémon Colosseum igri, igrač započinje s Espeonom i Umbreonom, koji su već trenirani do neke mjere do koje se ne može reći da su početni Pokémoni. U Pokémon XD: Gale of Darkness, igrač igru započinje Eeveejem i, nedugo nakon početka igre, dobiva izbor predmeta kojima može razviti Eeveeja u pet različitih evolucija: Vaporeona, Jolteona, Flareona, Espeona i Umbreona. | |||
Pokédex | |||
Detaljniji članak o ovoj temi: Pokédex | |||
Pokédex je izmišljena elektronička naprava popularna u Pokémon videoigri i animiranoj seriji. U igri, kad god je Pokémon uhvaćen, podaci o njemu bit će dodani u igračev Pokédex, no u animiranoj seriji i manga stripovima, Pokédex je iscrpna i sveobuhvatna elektronička verzija enciklopedije, koja se obično koristi kada se sreće nekog Pokémona po prvi put i očekuju su neke informacije o njemu. | |||
U videoigrama, Pokémon trener dobiva praznu napravu na početku svog putovanja. Trenerov je cilj popuniti Pokédex susrećući i bar nakratko imati (hvatanjem, razmjenom ili evolucijom) svaku od različitih vrsta Pokémona. Igrač će dobiti ime i sliku Pokémona nakon što sretne jednog kojeg još nije susreo. Detaljnija informacija tipično je dostupna nakon što igrač uhvati člana te vrste Pokémona, njegovim hvatanjem, razmjenom ili evolucijom. Ova detaljna informacija uključuje visinu, težinu, vrstu i kratak opis Pokémona. | |||
Razmjena i borbe | |||
U svim Pokémon igrama, razmjena Pokémona i borbe s drugim trenerima bitan su dio same igre. Ove igre zauzimaju mjesto u single-player igri ili kao aspekt u multiplayer igri. Kako bi se Pokémoni mogli razmijeniti, oba se trenera moraju složiti koji će se Pokémoni razmijeniti. Ovo se može obiti drugom igraču o glavu jer će neki bezobziran trener tvrditi da šalje jednog Pokémona i poslati drugog, ne tako rijetkog Pokémona. Nakon što se Pokémoni odaberu, vrši se razmjena. Nakon što se transfer obavi, trenerima se prikazuju njihovi novi Pokémoni. Poslije razmjene Pokémon dobiva dodatno iskustvo u borbi. | |||
Još jedan česti aspekt u svakoj Pokémon igri jest borba između trenera. Pravilo je da kada dvoje trenera uspostave kontakt očima, moraju se boriti. U singleplayer igrama, ovaj se "kontakt očima" strogo nameće, no neki NPC treneri imaju slab vidokrug, što znači da trener mora biti odmah pokraj njih prije nego ih izazovu, dok će neki drugi izazvati trenera na borbu čim se pojave na ekranu. Pravila borbe većinom su ista i podudarna za oba trenera. To znači da oba trenera moraju svojim Pokémonima reći koji da napad koriste, no napadi se odvijaju u krugovima, a Pokémon koji je brži od onog drugog napast će prvi. Novi tip borbe, dodan u Pokémon Ruby i Sapphire igrama, jest borba dva na dva. U takvim borbama, svaka strana ima dva Pokémona u igri. | |||
Razmjena i borba Pokémona u Game Boy igrama ostvarivala se Gameboy link kabelom između dvaju Game Boy konzola. Oba igrača uputila bi se u Pokémon centar i izrazila bi želju za razmjenom ili borbom. Ova su se pravila nastavila i na Gameboy Advance igre s jedinom iznimkom što se te igre nisu mogle povezati. Pokémon FireRed i LeafGreen uvele su sposobnost korištenja bežične naprave za povezivanje kako bi napravila veze bez žice u manjoj sobi. Ovo je umanjilo upotrebu kabela koji se prije koristio, ali se može koristiti samo u igrama Pokémon FireRed i LeafGreen. | |||
U drugim medijima | |||
Animirana serija | |||
Detaljniji članak o ovoj temi: Pokémon (anime) | |||
Slika iz animirane serije (s lijeva na desno: Brock, May, Max, Misty, Ash i Pikachu | |||
Pokémon animirana serija skup je zasebnih avantura, koja prikazuje Asha Ketchuma kao glavnog lika, i njegov san da postane Pokémon Majstor – iako je bit riječi Majstor nejasna. On i njegovi prijatelji putuju kroz svijet Pokémona, boreći se s ostalim Pokémon trenerima. | |||
Prve, najpoznatije epizode jesu Pocket Monsters ili jednostavno Pokémon (često se na njih odnosi s frazom Pokémon: Gotta Catch 'em All kako bi ih se razlikovalo od ostalih serijala), koja prati avanture Asha Ketchuma tijekom njegovih putovanja kroz Kanto regiju. Pokémon World serijal pratio je njegove avanture kroz Orange otoke, mjesto koje je inače nedostupno u samim videoigrama, a Pokémon: Johto journeys, Pokémon: Johto league champions i Pokémon: Master Quest serijali pratili su Asha tijekom putovanja kroz Johto regiju. Ovi serijali temelje se na prvoj i drugoj generaciji Pokémona. Ashovi prijatelji tijekom ovih putovanja bili su Brock, Vođa dvorane grada Pewtera; Misty, najmlađa od četiriju sestara koje vode dvoranu grada Ceruleana; i poslije Tracey Sketchit, umjetnik i Pokémon promatrač koji im je pravio društvo tijekom putovanja kroz Orange otoke. | |||
U prvotnim sezonama, Ashov je glavni protivnik još jedan trener iz grada Palleta, Gary Oak. Gary (čiji je djed Prof. Oak, čovjek koji je zadužen davati novim trenerima njihove prve, početne Pokémone) bio je jako poznat i praćen hrpom navijačica. Imena Ash i Gary dolaze od japanskih imena istih likova, Satoshija i Shigerua. Ova imena preuzeta su od dva čovjeka koji su zaduženi za čitav Pokémon projekt – tvorac Pokémona Satoshi Tajiri, i Shigeru Miyamoto, koji je Satoshiju pomogao da stvori cijeli projekt. | |||
Saga se nastavlja tijekom serijala Pokémon: Advanced, Pokémon: Advanced Generation, i Pokémon: Advanced Battle, koji prate Asha i njegova putovanja kroz Hoenn, južnu regiju Pokémon svijeta. Ash preuzima ulogu učitelja i mentora mladoj Pokémon trenerici imena May. Njen brat Max prati ih tijekom njihova putovanja koji, iako nije Pokémon trener, poznaje ogromnu količinu informacija vezanih uz Pokémone. Brock (iz prvotnih sezona) ubrzo sustiže Asha, May i Maxa te im se pridružuje, ali se Misty vraća u grad Cerulean da bi preuzela svoju ulogu Vođe dvorane. Ova je sezona temeljena na trećoj generaciji Pokémona. | |||
Poslije se Ash vraća u svoj rodni grad Pallet smješten u Kanto regiji i odlučuje se natjecati u Borbama bez granica (Battle Frontier), dok se May natječe u Kanto Pokémon Izložbama. Tijekom putovanja, nakratko im se pridružuje i Misty, na njenom putu prema dvorani grada Ceruleana. Ovaj dio serijala donekle se temelji na igrama Pokémon FireRed i LeafGreen te igri Pokémon Emerald. | |||
Trenutačno, Ash putuje kroz novu regiju Pokémon svijeta, Sinnoh. | |||
Trading Card Game | |||
Detaljniji članak o ovoj temi: Pokémon Trading Card Game | |||
Tipična Pokémon Trading Card Game karta (Vaporeon) | |||
Pokémon Trading Card Game igra je u kojoj se koriste karte za skupljanje, čiji je cilj jednak kao u borbama u Pokémon videoigrama; igrači moraju koristiti karte (s individualnim snagama i slabostima) u pokušaju da pobijede protivnika "onesvješćivanjem" svih njegovih karata. Igra je prvi put puštena u prodaju u Sjevernoj Americi 1999., a izdavač je bio Wizards of the Coast. | |||
Ipak, s puštanjem igara Pokémon Ruby i Sapphire videoigara namijenjenim za Game Boy Advance konzolu u prodaju, Nintendo USA preuzeo je igru karata od prethodnog izdavača karata, a to je bio Wizards of the Coast te ih je Nintendo USA počeo sam izdavati i puštati u prodaju. Expedition ekspanzija uvela je Pokémon-e Trading Card Game, karte koje su (većim dijelom) bile kompatibilne s Nintendo e-readerom. Nintendo je prekinuo s izdavanjem ovakvih karata nakon što su EX FireRed i LeafGreen karte puštene u prodaju. 1998. Nintendo je u prodaju pustio Game Boy Color inačicu karata u Japanu. 2000. ista je bila puštena u prodaju i u SAD-u i Europi. Ova je igra sadržavala digitalne verzije karata iz prvotnih setova karata i prve dvije ekspanzije (Jungle i Fossil), ali je isto tako sadržavala nekoliko karata ekskluzivnih za samu igru. Postoji i nastavak ove igre, ali nije bio pušten u prodaju izvan Japana. | |||
Pokémon manga stripovi | |||
Postoji nekoliko različitih, većinom japanskih, Pokémon manga stripova od kojih je 11 prevedeno na engleski jezik (time otvarajući jednostavniji put do prijevoda na druge jezike). Većina je stripova prilično drukčija od igara i animirane serije zbog istaknutijeg nasilja (Pokémoni katkad i umiru u borbi) i neprimjerenog jezika (koji je mahom ublažen u engleskim verzijama). | |||
Kulturni utjecaj | |||
Zabavni program imena Pokémon Live! obišao je Sjedinjene Američke Države 2000. godine. Temeljio se na Pokémon animiranoj seriji, ali je imao neke neprekidne greške vezane uz nju. 2002. zakazana je turneja diljem Europe, ali otkazana je iz nepoznatih razloga, vjerojatno zbog manjka interesa. | |||
Pokémoni, postavši nevjerojatno popularna franšiza, ostavili su velik trag u popularnoj kulturi. Sami Pokémoni postali su ikone u popularnoj kulturi; primjeri su Pikachu balon koji se pojavio tijekom parade održane za Dan zahvalnosti u New Yorku, Pokémon-stiliziran Boeing 747-400, preko tisuću prodajnih predmeta i tematski parkovi u Nagoyi, Japan 2005. i Taipeiju 2006. Pokémoni su se pojavili i na naslovnici Time magazina 1999. Humoristična animirana serija Drawn Together ima lik imena Ling-Ling koji je izravna parodija na Pikachua. Razne serije poput ReBoota, The Simpsonsa, South Parka i All Grown Up! napravile su parodiju na Pokémone u nekim od svojih epizoda. | |||
Kontroverze i kritike | |||
Prvotni dizajn Jynxa | |||
Prvotni dizajn Pokémona Jynxa (na slici desno) imao je nevjerojatnu sličnost s blackface zabavljačima. Iako Jynx vjerojatno predstavlja parodiju na japanske Ganguro i Yamanba trendove, koji su tijekom puštanja Pokémona u prodaju bile veoma popularni, ne može se poreći da se blackface-likovi nisu pojavljivali u ostalim animiranim serijama i manga stripovima. | |||
Kako su Pokémoni postajali sve poznatiji u SAD-u, zamjetna sličnost s rasističkom slikom iz američke povijesti uvrijedila je neke. Posebno je uvrijedila autoricu dječjih knjiga Carole Boston Weatherford, koja je sliku Jynxa optužila da je rasistički stereotip u njezinu članku imena Politically Incorrect Pokémon, u magazinu Black World Today, ubrzo nakon što je prikazana epizoda Holiday Hi-Jynx. Epizoda je poslije zabranjena u SAD-u. | |||
Kao odgovor na ovu kontroverzu, 2002. Nintendo je Jynxovu crnu boju licu promijenio u ljubičastu u Pokémon videoigrama, promjena koja će u animiranoj seriji biti vidljiva tri godine poslije, u Advanced Generation sezoni. | |||
Okrutnost prema životinjama | |||
Neki su ljudi primarni mehanizam Pokémona usporedili s borbama pijevaca. Gledano s ove točke, igra se prvenstveno sadrži od hvatanja i razmjenjivanja "divljih životinja", tjerajući ih da se bore jedne s drugima. Isto tako, sadrži brojne lijekove i droge koje pojačavaju njihovu snagu u borbama. Neki ljudi smatraju da bi ovo moglo potaknuti djecu na okrutnost prema životinjama i kockanje. | |||
Doduše, fanovi ove borbe vide kao prijateljsko nadmetanje između dva tima Pokémona i njihovih trenera. Iz ove točke gledišta, Pokémoni nisu prisiljeni na borbu. Postoje i neki teritorijalni Pokémoni (primjerice Pidgeotto), iako je njegovo ponašanje veoma različito od teritorijalne prirode pijevaca, koji će napadati "neprijateljskog" pijevca dok jedan od njih ne ugine. Isto tako, treneri u borbama nikada ne iscrpljuju Pokémone do smrti, gledajući borbu na rubu "ringa". U igrama i animiranoj seriji, publiku se uči da borbe između Pokémona nisu nužne i ne dovode do rješenja problema. Nadalje, Pokémoni u borbama nikada ne umiru; samo postanu jako umorni, ponekad do te granice da se onesvijeste. Isto tako, u animiranoj seriji napominje se nekoliko puta da se treneri bore zajedno s Pokémonima, kao tim, ne jednostavno tjerajući ih da to čine sami. | |||
Zdravlje | |||
Jedna od scena koja je izazvala brojne epileptične napadaje | |||
16. prosinca 1997. preko 635 djece u Japanu hospitalizirano je s konvulzivnim epileptičkim napadajima. Utvrđeno je da je uzrok napadaja bilo gledanje epizode Pokémona, "Dennō Senshi Porygon" ili "Computer Soldier Porygon" te otada ova epizoda više nikada nije bila prikazivana. Nakon dodatnog istraživanja, dokazano je da su svjetlucajući efekti tijekom serije rezultirali napadajima kod nekih osoba, čak iako prije nisu imali povijest epileptičkih napadaja. Kao posljedica toga, mnogi su proizvođači videoigara (uključujući i Nintendo) dodali etikete upozorenja na njihove proizvode, upozoravajući da bi izlaganje svjetlosnim efektima igre moglo uzrokovati epileptičke napadaje kod ljudi osjetljivih na fotosenzitivnu epilepsiju. | |||
است نویسنده سری کتابهای داستان هری پاتر به زبان انگلیسی است. کتاب های هری پاتر شهرت جهانی پیدا کرد و جوایز بسیاری را به خود اختصاص داد. هری پاتر به 65 زبان و به طور تقریبی در 400 میلیون نسخه منتشر شده است. کتابهای افسانهای هری پاتر از پرفروشترین کتابهای تاریخ بشر بودهاند. در سال 2007 sunday times rich list میزان ثروت رولینگ را به 454 میلیون پوند (1.07 بیلیون) دلار تخمین زد و در بین پولدارترین زنان انگلیس رولینگ را در رده 13 جدول قرار داد. فوربز (Forbes) رولینگ را در رده چهل و هشتمین شخصیت معروف در سال 2007 معرفی کرد. او در حال حاضر فعالیت های انساندوستی و خیرخواهانه بسیاری را به عهده گرفته و پشتیبانی می کند. فهرست مندرجات ۱ نام | |||
۲ زندگی | |||
۳ منابع | |||
۴ پیوند به بیرون | |||
نام | |||
علیرغم اینکه او با نام مستعار جی.کی رولینگ کتاب هایش را امضا می نماید ولی او هیچگاه نام وسط (middle name )نداشته است. هنگامی که اولین کتاب هری پاتر را نوشت آن را با نام "جوان رولینگ" امضا کرد. ناشر کتاب هری پاتر بلومزبری (bloomsbury) قبل از انتشار آن با در نظر گرفتن این مطلب که خوانندگان کتاب پسران جوان می باشند و ممکن است کتابی را که نویسنده اش زن باشد را نخرند، به رولینگ پیشنهاد کرد بجای استفاده از نام واقعی اش کتاب را با دو مخفف امضا نماید. از آنجاییکه وی مانند سایرین نام وسط (middle name) نداشت. مخفف "کی"(k) برای نام کاتلیین را بعنوان دومین مخفف انتخاب نمود. این نام مربوط به مادر بزرگ پدریش بود. رولینگ بعد از ازدواجش نامش جوان مورای بود. او میگوید در دوران جوانیش هیچگاه کسی وی را" جوان" خطاب نمی کرده مگر اینکه از دست وی عصبانی بوده باشد و همه او را "جو" می نامند. | |||
زندگی | |||
رولینگ در سال ۱۹۶۵ در شهر ییت نزدیک بریستول انگلستان چشم به جهان گشود. او در رشتهی زبان و ادبیات فرانسه در دانشگاه اکستر انگلستان به تحصیل پرداخت. رولینگ درسال ۱۹۹۰ هنگامی که در انتظار یک قطار که تأخیر داشت، بود، ایدهی هري پاتر و مدرسهی جادوگری در ذهنش شکل گرفت و سه سال بعد در زمانی که از همسر روزنامهنگار پرتغالیاش جدا شده و در حالی که همراه دخترش ـ جسیکا ـ که حاصل ازدواج نافرجامش بود، در ادینبورگ اقامت گزید و در یک بحران شدید روحی، مادی شروع به نوشتن اولین کتابش نمود و پس از دو سال و یازده ماه کار پیوسته، رولینگ دستنوشتههایش را برای دفتر انتشاراتی بلومزبری فرستاد و در اینجا بود که درهای خوشبختی به روی او باز شد. | |||
رولینگ در ۲۱ ژوئيه ۲۰۰۷ (۳۰ تير ۱۳۸۶) هفت گانهٔ هري پاتر را به اتمام رسانيد. او همچنين دو کتاب به نام های کوییدیچ در گذر زمان و جانوران جادویی و زیستگاه آنها نوشته است. | |||
وی اکنون با درآمد سالانه ۱۲ میلیون پوند، پردرآمدترین نویسنده تاریخ جهان شناخته شده است. اول پادشاه پروس به تحریک بیسمارک با اتریش و فرانسه به راه انداخت. ویلهلم اول، پس از رسیدن به پادشاهی، بیسمارک را به نخستوزیری برگزید. اولین جنگ بین پروس و دانمارک بود که علت آن اختلاف بر سر دوکنشینهای شلسویگ، هلشتاین، لونبورگ بین پادشاه دانمارک و اتحادیه ایالتهای آلمانی بود. بیسمارک از دولت اتریش دعوت نمود تا با پروس در حل اختلاف بین اتحادیه ایالتهای آلمانی و دانمارک همراهی کند و از آنجا که هر دو کشور از کریستیان پادشاه دانمارک خواستند از انضمام شلسویگ به خاک خود چشم بپوشد، و پادشاه دانمارک به این امر راضی نشد آن دو کشور با ۹۰ هزار سپاه به دانمارک حمله نمودند. سپاهیان کریستیان به علت کمی نیروها شکست خوردند و او درخواست صلح نمود و سرانجام به موجب عهدنامهای که در وین منعقد شد دانمارک رسماً از دوکنشینهای سه گانه چشم پوشید. پروس دوکنشین لونبورگ را تصرف کرد و اتریش ۱۵ میلیون مارک غرامت از آن دوکنشین گرفت و حکومت دو دوکنشین دیگر نیز بین دو دولت تقسیم شد. | |||
بیسمارک پس از جنگ دانمارک درصدد بود بین پروس و اتریش نیز جنگی ایجاد کند، ولی برای احتیاط ابتدا با ناپلئون سوم امپراتور فرانسه دوست شد و او را راضی نمود تا در جنگ بین پروس و اتریش بیطرف بماند و سپس با ویکتور امانوئل دوم پادشاه ایتالیا بر ضد اتریش معاهدهای منعقد ساخت. پس از آن، اتریش را متهم ساخت که در حکومت هلشتاین از رعایت منافع مشترک دو دولت خودداری کردهاست. همچنین موضوع تغییر وضع اتحادیه دولتهای آلمانی را پیش کشید و مجلس اتحادیه ایالتهای آلمانی به اتریش اعلان جنگ داد. جنگ سادو که آلمانیها آن را کونیگراتس میگویند نتیجه درگیری بین پروس و اتریش را مشخص نمود. بعد از آن دیگر اتریشیها مقاومت جدی نکردند و در فردای جنگ سادو، فرانسو ژوزف درصدد برآمد با ناپلئون سوم صلح نماید. به موجب معاهده پراگ، ایالات شلسویک هولشتاین، هانور الکنرال، هس و فرانکفورت ضمیمه پروس گردید و پروس، که تا این زمان دو قطعه جداگانه بود، به یک مملکت تبدیل شد. بعد از این، بیسمارک با ممالک واقع در شمال رودماین در مورد تشکیل یک اتحادیه جدید به مذاکره پرداخت و این هیئت به اسم ممالک مجتمعه آلمان شمالی در ماه آوریل ۱۸۶۷ تشکیل گردید که شامل ۲۲ مملکت یعنی تمام ممالک آلمان به جز آلمان جنوبی (ممالک باویر و ورتامبرگ و گراندوشه باد) میشد. | |||
جنگ فرانسه با آلمان | |||
بیسمارک پس از غلبه بر اتریش درصدد به راه انداختن جنگ پروس با فرانسه بود. این جنگ دو علت داشت: اولاً اراده بیسمارک در تکمیل وحدت آلمان به وسیله منضم کردن ممالک جنوی به ممالک مجتمعه شمالی که برای موفقیت در این امر لازم بود احساسات ضد پروسی را در ممالک جنوبی به وسیله احساسی قویتر که کینه نسبت به فرانسه (دشمن ارثی) باشد از بین ببرد؛ ثانیاً دولت فرانسه نتوانست در موقع مساعد اقدامات لازم را انجام دهد و تظاهراتی جنگجویانه داشت. دولت فرانسه از بیسمارک قسمتی از اراضی باویر در ساحل رود رن و همچنین شهر مایانس را تقاضا نمود (پنجم اوت ۱۸۶۶) و چون بیسمارک جواب داد که این تقاضا در حکم جنگ است این تقاضا پس گرفته شد؛ ولی طولی نکشید که فرانسه در ۲۰ اوت الحاق فوری لوکزامبورگ و اجازه الحاق بلژیک را در موقع مساعد درخواست نمود و در مقابل: اولاً پروس را آزادی میداد که در آلمان جنوبی مثل آلمان شمالی آزادانه عمل کند، ثانیاً حاضر شد با پروس قرارداد تعرضی و تدافعی منعقد نماید. بیسمارک هم پیشنهادهای ناپلئون را فوراً با شاهان باویر و ورتمبرگ اطلاع داد و آنها خشمگین شده و قراردادهای نظامی با ویلهلم اول منعقد ساختند. بدین ترتیب، اهالی ایالتهای جنوبی آلمان هم نسبت به فرانسه بدبین شدند. لوکزامبورگ ملک شخصی پادشاه هلند بود و او راضی شد به ۹۰ میلیون فرانک آن را به فرانسه بفروشد؛ اما این خبر هیجانی در آلمان برانگیخت و بیسمارک پادشاه هلند را مجبور ساخت از فروش لوکزامبورگ خودداری نماید و سرانجام این موضوع در کنفرانس لندن مورد بررسی قرار گرفت. اختلاف دیگر بر سر سلطنت اسپانیا بود که در ۱۸۶۸ نام پرنس لئوپلد پسر عم پادشاه پروس به میان آمد و این امر هم موجب نگرانی فرانسه گردید. سرانجام درروز سهشنبه ۱۹ ژوئیه ۱۸۷۰ ناپلئون رسماً به دولت پروس اعلان جنگ داد و در دوم اوت جنگ آغاز شد و تا شش ماه ادامه یافت. در پایان کار فرانسویان شکست خوردند. به موجب عهدنامه فرانکفورت فرانسه مجبور شد آلزاس و لورن را به آلمان واگذار کند، یک میلیارد دلار غرامت بدهد و اجازه دهد آلمان استحکامات مهم فرانسه را تا زمان پرداخت غرامت در تصرف داشته باشد. شکست فرانسه در ۱۸۷۱ موجب تشکیل امپراتوری آلمان گردید، باویر، ورتمبرگ و باد به اتحادیه آلمان شمالی پیوستند و پادشاه پروس ویلهلم اول به مقام امپراتوری رسید. امپراتوری ۲۵ دولت نامتساوی و همچنین سرزمین آلزاس و لورن را که از فرانسه جدا شده بود شامل میشد. مجلس امپراتوری (رایشتاگ) با آراء عمومی انتخاب میشد و احزاب برجسته آن عبارت بودند از محافظهکاران، کاتولیکها، آزادیخواهان و سوسیالیستها. بیسمارک سیاست جهاد برای تمدن را در پیش گرفت و اصلاحاتی انجام داد. | |||
اتفاق امپراتوران سه گانه | |||
دولت آلمان پس از آنکه بر امپراتوریهای اتریش و فرانسه پیروز شد قدرتمندترین دولت اروپا گردید و قوای نظامی آن بر سایر کشورها برتری یافت ولی از انتقام فرانسه بیم داشت و میترسید دول بزرگ اروپا برضد او متحد شوند. به همین علت پس از مصالحه فرانکفورت، با اتریش طرح دوستی ریخت. در سال ۱۸۷۱ در طی ملاقات ویلهلم اول و فرانسوا ژوزف این پیمان محکم شد. سال بعد الکساندر دوم تزار روسیه، که شخصاً به امپراتور آلمان علاقهمند بود، با آن دو دولت همراه شد و این پیمان به اتفاق امپراتوران سهگانه معروف شد. (اکتبر ۱۸۷۳) | |||
جنگ روسیه و عثمانی | |||
جنگ بین روسیه و عثمانی که در ۱۸۷۷ آغاز شده بود به پایان رسید و روسها در سوم مارس ۱۸۷۸ معاهده سن استفانو را به ترکها تحمیل نمودند. برای رفع اختلاف در این مورد کنگره برلین در ژوئیه ۱۸۷۸ بین کشورهای اروپایی تشکیل شد. تزار نسبت به بیسمارک و روشی که در کنگره اعمال کرده بود خشمگین بود و الکساندر دوم رهبر آلمان را به مانند، یک خائن نگاه میکرد و در نتیجه، اتفاق سه امپراتور از بین رفت. همچنین در سال بعد رقابت روسیه و اتریش در بالکان موجب مداخله آلمان شد و چون اتریش از نژاد ژرمن بود آلمان از اتریش طرفداری کرد. از این رو اتحاد سهگانه به اتحاد دوگانه تبدیل شد. به موجب این معاهده آلمان و اتریش قبول نمودند که در هنگام لزوم به هم یاری برسانند و هیچگاه جداگانه با دشمن صلح نکنند. | |||
شکلگیری اتحاد مثلث | |||
سه سال بعد در سال ۱۸۸۲ پیمان دوجانبه به پیمان سهجانبه تبدیل گردید و ایتالیا به آن ملحق شد. براساس مواد محرمانه این پیمان، اگر ایتالیا یا آلمان مورد حمله فرانسه واقع میشد هر سه کشور با مهاجم وارد جنگ میشدند. ایتالیاییها، که از قدرت دریایی ترس داشتند، اعلام کردند اگر بریتانیا در این حملات شرکت داشته باشد، این پیمان اجرا نشود. چون ایتالیا از تصرف تونس توسط فرانسه در ۱۸۸۱ ناراضی بود و از طرف دیگر آلمان به آن کشور پیشنهاد کرده بود که برای حفظ لیبی کمکش کند در نتیجه، ایتالیا نیز مایل بود که وارد اتحاد با آلمان شود (اکتبر ۱۸۸۱). این اتحاد در ابتدا پنج ساله بود ولی بعداً در سالهای ۱۸۸۷ و ۱۸۹۱ و ۱۹۰۲ و ۱۹۱۲ تجدید شد. در این اتحاد مثلث، آلمان بر دو دولت دیگر مسلط بود و آنها غالباً تابع دستورهای آلمان بودند و در اختلافات بین اتریش و ایتالیا، آلمان همیشه واسطه بود ولی بیشتر از اتریش حمایت مینمود. همچنین قراردادهای مخصوصی در مورد طرابلس، آلبانی و مقدونیه و ممالک بالکان بین دولتهای سهگانه امضا شد که موجب تحکیم اتحاد مثلث میگردید. در بین این سه دولت اختلافاتی هم وجود داشت؛ ایتالیا و اتریش در شبه جزیره بالکان و قسمت شرقی مدیترانه با هم اختلاف داشتند و ایتالیا از اتحاد با اتریش ناراضی بود، ولی چون اتحاد با آلمان را برای جلوگیری از تجاوزات اتریش ضروری میدانست مجبور به تحمل بود. در سال ۱۹۱۱، که ایتالیا با عثمانی بر سر طرابلس در حال جنگ بود، این خطر وجود داشت که اتحاد ایتالیا و آلمان از بین برود؛ زیرا آلمان از دربار قسطنطنیه امتیازات خوبی گرفته بود و برای عثمانی اسلحه و مهمات میفرستاد. بنابر این در اتحاد مثلث وحدت واقعی بین کشورهای ژرمنی نژاد آلمان و اتریش بود و ایتالیا چندان به حساب نمیآمد. ایتالیا هم ظاهراً در اتحاد مثلث بود و از سال ۱۹۰۱در واقع با متحدین نبود و روش خاصی را در پیش گرفت. | |||
مقدمات شکلگیری اتفاق مثلث | |||
بعد از کنگره برلین، که روسها از آلمانیها رنجیدند، دولت فرانسه، که منتظر فرصت بود و مایل بود روسیه را به سوی خود جلب کند، از فرصت استفاده نمود؛ ولی تا زمانی که بیسمارک، بر سر کار بود این امر ممکن نشد. در سال ۱۸۹۰، بعد از برکناری بیسمارک سیاست غیرعاقلانه ویلهلم دوم موجب نزدیکی فرانسه و روسیه گردید. | |||
دولت فرانسه به تزار روس وعده کمک مالی داد و تزار هم که برای پیشبرد مقاصد سیاسی خود به سرمایه خارجی نیاز داشت با این امر موافقت نمود و سرانجام در اوت ۱۸۹۱ اتحاد بین دو کشور برقرار گردید. البته بعد از شکست روسیه از ژاپن در ۱۹۰۵ اساس اتحاد فرانسه و روسیه متزلزل شد؛ ولی به هر حال، فرانسه در مقابل اتحاد مثلث به دوستی احتیاج داشت؛ همچنین، علاوه بر نیاز سیاسی، ارتباطات مالی نیز بین دو کشور برقرار شده بود و فرانسه ۱۳ میلیارد فرانک به روسیه وام داده بود. در مه ۱۹۰۳ ادوارد هفتم از پاریس دیدن کرد و در این دیدار از نظر تحسینبرانگیز مردم انگلیس نسبت به فرانسه و از افتخارات فرانسه در طول سالیان و از دوستی مردم انگلیس و فرانسه سخن گفت. در ماه اوت همان سال رئیسجمهوری فرانسه به اتفاق وزیر امور خارجه آن کشور از لندن دیدار کرد و در هفتم آوریل ۱۹۰۴ عهدنامه معروف بین فرانسه و انگلیس به امضا رسید. موارد مورد اختلاف شامل امور مربوط به ماهیگیری در پهنه دریای ارض جدید، مسئله سیام، ماداگاسکار و مهمترین مسئله آزادی عمل فرانسه در مراکش و آزادی فعالیت انگلیس در مصر بود. فرانسه پس از اتحاد با انگلیس به فعالیت در مراکش پرداخت و واکنش آلمان چنین بود که در مارس ۱۹۰۵م ویلهلم دوم در طنجه حضور یافت و نطق مفصلی را در مورد استقلال مراکش بیان نمود، هدف آلمان از این اقدام برهم زدن اتحاد جدید فرانسه و انگلیس بود. برای حل این موضوع در ۱۹۰۶ یک کنفرانس بینالمللی در الجزیره برگزار شد که در آن انگلیسیها از فرانسویها حمایت کردند و کوشش آلمان برای برهم زدن اتحاد بین انگلیس و فرانسه به نتیجهای نرسید. در ۱۹۱۱ بحران دیگری بر سر مراکش به وجود آمد. یک فروند ناو جنگی آلمانی به نام یوزپلنگ برای حفظ منافع آلمان وارد اغادیر شد و آلمانیها پیشنهاد کردند که اگر کنگوی فرانسه به آنها داده شود آنها دیگر مزاحمتی ایجاد نخواهند کرد و سرانجام آلمانیها توانستند به اراضی کوچکی در افریقا دست یابند. | |||
نزدیکی روس و انگلیس | |||
دولت فرانسه با روسیه دوست بود، انگلیس هم متحد ژاپن به شمار میآمد و روس و ژاپن دشمن خطرناک یکدیگر بودند؛ اما منافع روس و انگلیس چنین اقتضا مینمود که روس و ژاپن به اتحاد فرانسه و انگلیس وارد شوند؛ ولی بلندپروازی روسها در این تاریخ و قدرت نظامی آن و همچنین نزدیکی امپراتور روس و آلمان که روابط آنها دوستانه بود مانع این کار میشد. مشکل اول با شکست روسیه از ژاپن حل شد. اختلافات دیگر روس و انگلیس بر دو مسئله دیگر متمرکز بود: یکی بالکان برای تصرف بغازها و دیگری در ایران که انگلیس دوست داشت این مناطق کاملاً در اختیار خودش باشد. مسئله دیگر که باعث سردی روابط انگلیس و آلمان شده بود برخورد قیصر آلمان در موضوع ترانسوال بود؛ زیرا هنگامی که پل کروگر حاکم ترانسوال میخواست به ترانسوال استقلال بدهد و در پی متحدی در برابر سیسیل رودز و انگلیس بود تنها قدرتی را انتخاب نمود که سرزمینهایی در افریقای جنوبی داشت و آن کشور آلمان بود پس از پیروزی بوئرها تلگرافی از سوی قیصر آلمان برای او فرستاده شد با این مضمون: «من دوستانه به شما تبریک میگویم که شما بدون دریافت کمک خارجی گروههای مسلح را سرکوب نمودید و توانستید صلح و آرامش را برقرار نمائید» و این برخورد قیصر برای روابط انگلیس و آلمان عواقب جدی داشت؛ زیرا قیصر از کروگر که دشمن انگلیس بود حمایت کرده بود. مسئله دیگر صادرات روزافزون آلمانیها بود زیرا در سال ۱۸۹۵ در انگلیس رسالهای تحت عنوان ساخت آلمان منتشر شد که خطر صادرات روزافزون آلمان را برای انگلیس تشریح میکرد. | |||
مسئله دیگر که ایجاد خطر برای انگلیس مینمود پیشرفت نیروی دریایی آلمان بود. ویلهلم دوم از سال ۱۹۰۰ به تقویت نیروی دریایی آلمان پرداخت و علناً اظهار نمود که آلمان نمیتواند به نیروی زمینی قناعت کند و باید در نیروی دریایی بر همه کشورها برتری داشته باشد. انجمنی به نام اتحاد دریایی آلمان تشکیل داد و به کمک آن هزینه لازم را برای ساختن کشتیهای جنگی تأمین نمود. همچنین پیشرفتهای تجاری و صنعتی آلمان نیز باعث شکست بازار تجارت و صنعت شده بود. به هر حال، این سوال مطرح است که چرا انگلیس در بین روسیه و آلمان، اولی را انتخاب نمود: چون منافع انگلیس هم از طرف روس و هم از طرف آلمان تهدید میشد؛ از یک طرف خطر توسعه نفوذ روس، و از سوی دیگر خطر نفوذ آلمان در آسیای صغیر و خلیج فارس و اتصال راهآهن بغداد به داخل ایران و نزدیک شدن این دو خطر به مرزهای هند به مشکلات دفاع از هند میافزود و سیاست انگلیس این بود که این دو دولت را با هم درگیر سازد و قوای آنها را تحلیل ببرد؛ اما تأمل انگلیس در این بود که خود به کدام طرف ملحق شود. منافع بریتانیا حکم میکرد که به روسها نزدیک شود زیرا عقل و درایت روسها اندک و زورشان بیشتر بود؛ ولی مسئله این بود که انگلیس با تقاضاهای روسیه چگونه برخورد نماید؛ تقاضاهای روس در بالکان، داردانل، ایران و افغانستان. مسئله ایران و افغانستان یک امر حیاتی بود و صلاح در این بود که هیچ امتیازی در این منطقه ندهد؛ پس بهتر بود که انگلیس، روسها را به سوی بالکان و داردانل سوق دهد و آنها را امیدوار سازد. سرانجام، در قراردادی که در ۳۱ اوت ۱۹۰۷ در شهر سن پترزبورگ بسته شد روس و انگلیس اختلافات خود درباره ایران و افغانستان را حل کردند و چون اختلافات سیاسی انگلیس و فرانسه و روسیه حل شد سه دولت تشکیل اتفاق مثلث را دادند که هدفشان جلوگیری از پیشرفتهای سیاسی، اقتصادی و نظامی آلمان بود. | |||
بحرانهای بالکان قبل از جنگ | |||
از ۱۹۱۱ تا ۱۹۱۳ جنگهایی درگرفت که زمینه جنگ جهانی اول را آماده ساخت. در سپتامبر ۱۹۱۱ ایتالیا به عثمانی اعلان جنگ داد و طرابلس را اشغال نمود و در نیمه اکتبر ۱۹۱۲ جنگ به پایان رسید. در اکتبر ۱۹۱۲ تقریباً همزمان با ایتالیا، بلغارستان، صربستان، یونان و مونته نگرو به ترکیه حمله نمودند و در اوائل دسامبر ۱۹۱۲ ترکیه تقاضای صلح نمود. در تابستان ۱۹۱۳ جنگ دیگری بر سر غنائم به دست آمده از عثمانی درگرفت. کنفرانس سفیران در دسامبر ۱۹۱۲ توسط گری در لندن تشکیل شد و در ۳۰ مه ۱۹۱۳ در لندن قراردادی امضا شد که ترکها را مجبور میساخت مستملکات خود را از میدیا در ساحل دریای سیاه تا آلتوس در ساحل اژه را به اروپاییان واگذار کنند. | |||
اوضاع داخلی و تحولات آلمان پس از وحدت | |||
آلمان متحد از نظر قوای مادی و معنوی بی نظیر؛ مجدانه به تعلیم و تربیت فرزندان خود پرداخت، در توسعه فرهنگ و ترویج علوم بر همه کشورها پیشی گرفت و سعی داشت در صنعت و تجارت و بهداشت از علوم و اکتشافات جدید بهره بگیرد. از این رو، در مدت کوتاهی بزرگترین دولت صنعتی و تجاری اروپا گردید، مخترعان را تشویق نمود، صنایع شیمیایی را رونق داد، در وضع قوانین اجتماعی هم از بقیه دولتها پیشی گرفت و برای طبقه کارگر اهمیت قائل شد. در حالی که در بقیه کشورها حقی برای کارگران قائل نبودند. واقعیت دیگر اینکه حکومت خاندان هوهنتسولرن در این کار مؤثر بود. ملت آلمان پس از غلبه بر اتریش و فرانسه دچار غرور ملی شد و سیاستمداران آلمانی از روشهای مختلف این غرور ملی را تقویت نمودند. حتی هر معلمی ناگزیر بود که در سر کلاس درس برتری نژادی ملت آلمان بر سایر ملل عالم را بیان کند و در شاگردان خود روح جنگجوئی بدمد. گذشته از مجالس درس، در معابر، روزنامهها و کتب و نمایشگاهها این برتری نژادی به نوعی القا میشد؛ حتی نیچه یکی از معروفترین فیلسوفان آلمان هم چنین عقیدهای داشت و در یکی از آثار خود چنین گفتهاست که: «اگر آدمی جنگ را فراموش کند از او امید میباید برید» و به همین دلیل کم کم طرز فکر مردم آلمان یکسره تغییر یافت و بر آنها مسلم شد که نژاد آلمانی ممتاز است و باید به سراسر زمین مسلط باشد و این تسلط هم جز از راه جنگ امکانپذیر نیست. ترویج این افکار در آلمان سایر دولتهای اروپایی را نگران ساخت و باعث شد تا بر ضد نژاد ژرمنی با هم متحد شوند. | |||
دولت آلمان تا اواخر قرن ۱۹ در افریقا مستعمرهای نداشت ولی پس از وحدت چون جمعیت آن افزایش یافت و صنعت و تجارت رونق گرفت به دنبال تحصیل مستعمرات برآمد تا هم قسمتی از مردم آلمان را به آنجا کوچ دهد و هم مواد خامی که برای کارخانههای داخلی لازم داشت فراهم کند و همچنین بازاری برای فروش کالاهای خود بیابد. سرانجام بیسمارک قسمت بزرگی از اراضی افریقا را به دست آورد که شامل توگو و کامرون در ساحل غربی افریقا و یک ناحیه در جنوب غربی و ناحیه دیگر در مشرق بود. آلمان پس از پیروزی بر فرانسه از نظر نیروهای نظامی بر سایر کشورهای اروپا برتری یافته بود؛ ولی باز هم به این کار ادامه داد و تا سال ۱۹۱۴ روز به روز بر قوای جنگی خود افزود. از سال ۱۹۱۱ آلمان در افزایش نیروهای جنگی کوشید و میزان گسترش قوای مزبور در سالهای ۱۹۱۱ و ۱۹۱۲ و ۱۹۱۳ با پیشرفت چهل ساله آن از ۱۸۷۱ تا ۱۹۱۱ برابر بود. در طی این مدت کوتاه شبکههای گسترده راهآهن و راههای شوسه، تأسیسات عظیم صنعتی، نهادهای قدرتمند اقتصادی و به خصوص تشکیلات گسترده نظامی آلمان موجب وحشت قدرتهای اروپایی گردید. در سال ۱۹۱۴ آلمان از نظر صنعتی و اقتصادی به پیشرفتهای عظیمی دست یافت. به لحاظ نظامی نیز دارای قدرتمندترین ارتش و نیروی دریایی شد. روحیه نظامیگری در مزرعه، کارخانه و پادگان و همه جا حاکم بود و همه چیز در خدمت ارتش قرار داشت. نیروهای نظامی آلمان بیش از یک میلیون نفر بودند و این افزایش نیروهای صنعتی و نظامی موجب اشباع جامعه آلمان گردید و آلمان مجبور بود سرمایه و کالاهای اضافی را به دیگر مناطق جهان بفرستد؛ بنابر این به دنبال مناطق نفوذ اقتصادی و منابع مواد اولیه بود و این هم یکی از دلایل جنگ جهانی اول بود. | |||
برقراری روابط بین آلمان و عثمانی | |||
یکی از کشورهایی که آلمان علاقهمند بود روابط خود را با آن گسترش دهد امپراتوری عثمانی بود که بر منابع نفتی تسلط داشت. از سال ۱۸۸۰م. آلمان متوجه اهمیت روابط با امپراتوری عثمانی گردید. در سال ۱۸۸۲ سپهسالار فون در گلتز از سوی سلطان عبدالحمید مأموریت یافت ارتش عثمانی را دارای سازمان منظمی سازد و افراد آن را آموزش دهد. افسران برجسته هیئت نظامی آلمانی که در عثمانی فعالیت داشتند شامل فیلدمارشال پروسی فن در گلتس، دو ژنرال دیگر لیمان فن ساندرز و فون فالکنهاین سه دریاسالار به نامهای سوچون، اودم و مرتن و چند افسر دیگر بودند. | |||
البته یکی از طراحان برنامه گسترش فعالیت آلمان در خاورمیانه مارشال فن بی براشتاین بود که از ۱۸۹۷ تا ۱۹۱۲ سفیر آلمان در باب عالی بود و اعتقاد داشت که اجرای این برنامه موجب درگیری بین روسیه و آلمان خواهد شد. در سال ۱۸۹۸ ویلهلم دوم و ملکه آلمان به استانبول سفر کردند و فصل جدیدی در همکاری بین دو ملت پدید آمد. امپراتور آلمان در مسافرت دوم خود به امپراتوری عثمانی خود را طرفدار دوستی ملت ترک و سایر ملل ملسمان معرفی نمود و در نطق خود اظهار داشت: «اعلیحضرت سلطان عبدالحمید و ۳۰۰ میلیون مسلمان میتوانند اطمینان داشته باشند که آلمان، دوست و هواخواه آنهاست». این سیاست به زودی به لحاظ اقتصادی ثمرات مهمی برای آلمان به بار آورد، بانکداران و بازرگانان آلمانی در سراسر امپراتوری عثمانی مستقر شدند و امتیازات مهمی به مؤسسات اقتصادی آلمان داده شد. آلمان در جست وجوی نفت بود و علاوه بر آن برای رقابت با انگلیس به یک نیروی دریایی قوی نیاز داشت. آلمانیها در هنگام مذاکره با دولت عثمانی در مورد منابع نفتی عراق سخن نگفتند بلکه فقط تقاضای اخذ امتیاز خط راهآهن را داشتند، به این شرط که امتیاز استخراج معادن اطراف راهآهن تا شعاع ۲۰ کیلومتر به آنها داده شود. در سال ۱۹۰۲ بانک آلمان، امتیاز ساختمان راهآهن برلین – بغداد را به دست آورد که باعث نفوذ هرچه بیشتر آلمان در میانرودان میگردید. یکی دیگر از امتیازات آلمان از عثمانی ادامه راهآهن از بغداد به خانقین بود که آلمان تصمیم داشت پس از اتمام خط آهن بغداد، همین راه را از خانقین به تهران و ولایات مرکزی ادامه دهد و ایران را به اروپا مربوط سازد. در سال ۱۹۱۰ مدت تعهد ایران در مقابل روسیه که ۲۰ سال حق ساختن راهآهن را از ایران سلب نموده بود تمام میشد؛ به همین علت از طرف بانک مشهور آلمان به نام دویچه بانک مأموری به نام سیدروت به ایران آمد که امتیاز خط آهن خانقین ـ تهران را به دست آورد. این امر موجب نگرانی مقامات روسی و انگلیسی شد و باعث مبادله یادداشت هفتم آوریل ۱۹۱۰ بین ایران و آن دو دولت گردید، و ایران به ناچار تعهد نمود که بعد از این امتیازی که مخالف منافع آن دو دولت باشد به هیچ تبعه دولت خارجی واگذار نکند؛ بنابر این، تلاش آلمان به نتیجه نرسید. | |||
اما نفوذ نظامی آلمان در امپراتوری عثمانی افزایش یافت و در ۱۹۱۴ آموزش ارتش عثمانی به یک گروه چهل و دو نفره از افسران آلمانی به ریاست ژنرال لیمان فن ساندرز واگذار شد. سپس آلمان تصمیم گرفت در مورد ادامه راهآهن برلین ـ بغداد با روسیه مذاکراتی انجام دهد. در ۱۹۱۰تزار نیکلای دوم و ویلهلم امپراتور آلمان در پوتسدام ملاقات نمودند و در مورد منافع روس و آلمان در ایران مذاکراتی صورت گرفت. سرانجام، در ۱۹ اوت ۱۹۱۱ قراردادی بین روسیه و آلمان در سن پترزبورگ منعقد شد که به موجب آن دولت آلمان منطقه نفوذ روسیه را به رسمیت شناخت. و در عوض روسیه هم اجازه داد که اگر تا چهار سال دیگر راهآهنهای روس به خانقین متصل نشود دولت آلمان حق داشته باشد خط آهن اسلامبول ـ بغداد و خانقین ـ تهران را بسازد. | |||
دلایل وقوع جنگ جهانی اول | |||
به طور کلی این مسائل بود که زمینههای جنگ جهانی اول را فراهم ساخت: علل جنگ جهانی اول عبارت بود از: رقابت اتریش و روسیه در بالکان، اختلاف بین فرانسه و آلمان از سال ۱۸۷۰ درباره آلزاس ولرن و رقابت اقتصادی و دریایی بین آلمان و انگلیس؛ اما بهانه شروع جنگ این بود که آرشیدوک فرانتس فردیناند ولیعهد امپراتوری اتریش - مجارستان به دست پرنزیب تبعه اتریش و متکلم به زبان صربستانی در ۲۸ ژوئیه ۱۹۱۴ در سارایوو بوسنی به قتل رسید و اتریش ادعا کرد صربستان در این کار دخالت داشته و تقاضا نمود تحقیقاتی با شرکت نمایندگان اتریش صورت پذیرد که دولت صربستان تحقیقات را قبول نمود ولی با حضور نمایندگان خارجی مخالفت کرد. دولت اتریش به صربستان اعلان جنگ داد و روسیه بسیج عمومی اعلام کرد و آلمان هم به حمایت از اتریش به روسیه و فرانسه اعلان جنگ داد. قوای آلمان به بلژیک حمله کرد و این اقدام یعنی حمله به یک کشور بیطرف موجب دخالت انگلیس در جنگ شد. | |||
نخستین جبهه: از رمانتیسم به سنگرها | |||
وقتیکه در ماه اوت ۱۹۱۴ جنگ اعلام شد، میلیونها تن از مردم شادمان در خیابانهای شهرهای مهم اروپا شروع به رقص و پایکوبی نمودند. مردم تصمیم حاکمان خود برای رفتن به جنگ مورد حمایت قرار دادند. مردان جوان داوطلب برای جنگیدن، هجوم میآورند. با این وجود، صحنههای دهشت انگیز جنگ جهانی اول، نگرش مردم به جنگ را تغییر داد. یک نسل کامل از مردان جوان به خاک و خون کشیده شدند. | |||
جبهه شرق و روسیه | |||
ایران در جنگ جهانی اول | |||
جنگ جهانی اول همزمان با حکومت احمد شاه قاجار بود و دولت مشروطه ایران ضعیف ترین دوران خود را میگذراند.علیرغم اعلام بی طرفی دولت ایران نیروهای متخاصم از جنوب و شمال وارد ایران شدند. سپاه روسیه تا دروازههای تهران پیشروی کرد اما از منقرض کردن سلسله قاجار منصرف شدند. در جنوب مردم محلی در چند نوبت با متجاوزان انگلیسی درگیر شدند که از مهمترین نبردهای جنگ جهانی اول در ایران میتوان به مقاومت دلیران تنگستان در استان بوشهر و نبرد جهاد در خوزستان اشاره کرد. جمعی از رجال از قم به اصفهان و سپس اراک و بالاخره به کرمانشاه رفتند و عاقبت در آنجا قوای گارد ملی ترتیب دادند و حکومت موقتی دولت ملی به ریاست نظام السلطنه ( رضا قلی خان مافی ) تشکیل گردید. پس از سقوط بغداد اعضا دولت موقتی دولت ملی و جمع بسیاری از ایرانیان به استانبول رفتند. | |||
پیامدهای بعدی جنگ جهانی اول | |||
جنگ جهانی اول، چهار امپراتوری را نابود ساخت، امپراتوری آلمان تاج و تخت را از دست داد و دولت جمهوری جایگزین آن شد. امپراتوریهای شکست خورده اتریش ـ مجارستان و امپراتوری عثمانی هر دو از هم گسیختند و امپراتوری روسیه نیز بدست انقلابیهای بلشویک افتاد. | |||
در سال ۱۹۱۶ م ملی گرایان ایرلندی در دوبلین واقع در ایرلند، قیام عید پاک را ترتیب دادند. این شورش با شکست مواجه شد، اما موج مخالفتهای گسترده علیه حکومت بریتانیا در ایرلند را به راه انداخت. در سال ۱۹۱۹ مجلس ایرلند، حکومت این کشور را «جمهوری» اعلام کرد، و متعاقب آن ۳ سال جنگ بین ارتش جمهوریخواه ایرلند و بریتانیا در گرفت .در سال ۱۹۲۹ ایرلند جنوبی ، به عنوان دولت آزاد ایرلند به استقلال واقعی رسید. شش استان درشمال ایرلند جزء پادشاهی انگلستان باقی ماندند. | |||
در دهههای ۱۹۲۰ و ۱۹۳۰ م بسیاری از کشورهای اروپایی از دموکراسی دست کشیدند. حزب نازی هیتلر در آلمان به قدرت میرسد و فاشیستهای موسولینی بر ایتالیا حکومت میکنند. در ابتدا بریتانیا و فرانسه کوشیدند با این دیکتاتورهای جنگ طلب سازش کنند. آنها عاقبت در سال ۱۹۳۹ در برابر تهاجم هیتلر ایستادند و اروپا به جنگ جهانی دوم کشیده شد. در سپتامبر ۱۹۳۹ م، جنگ جهانی دوم در اروپا آغاز شد. دیکتاتور آلمان، آدولف هیتلر، میخواست تا رایش سوم به یک قدرت مطلقه در اروپا، تبدیل شود. در ابتدا تاکتیک حملات برق آسا موفقیت آمیز مینمود. اما پس از سال ۱۹۴۳م، قوای متفقین، متشکل از نیروهای، شوروی انگلستان و امریکا بر آلمان برتری یافتند. سرانجام، آلمان در ماه می۱۹۴۵م، نه روز پس از خودکشی هیتلر، تسلیم شد. بیش از چهل میلیون ا | |||
todo políticamente. Alemania y Estados Unidos le disputaban el predominio industrial y comercial. Durante la segunda mitad del siglo XIX y los inicios del siglo XX se produjo la repartición de África (a excepción de Liberia y Etiopía) y Asia Meridional, así como el gradual aumento de la presencia europea en China, Estado en franca decadencia. | |||
Estados Unidos y, en menor medida, el Imperio Ruso controlaban eficientemente sus vastos territorios, unidos por largas líneas férreas (ferrocarril Atlántico-Pacífico y Transiberiano, respectivamente). Inglaterra y Francia, las dos principales potencias coloniales, se enfrentaron en 1898 y 1899 en el denominado incidente de Faschoda, en Sudán, pero el rápido ascenso del Imperio alemán hizo que los dos países se unieran a través de la Entente cordiale. Alemania, que solamente poseía colonias en Camerún, Namibia, África Oriental, algunas islas del Pacífico (Islas Salomón) y enclaves comerciales en China, empezó a pretender más a medida que aumentaba su poderío militar y económico posterior a su unificación en 1871. Una desacertada diplomacia fue aislando al Reich, que sólo podía contar con la alianza incondicional de Austria-Hungría. | |||
Francia deseaba la revancha de la derrota sufrida frente a Prusia en la Guerra Franco-prusiana de 1870-1871. Mientras París estaba asediada, los príncipes alemanes habían proclamado el Imperio (el llamado Segundo Reich) en el Palacio de Versalles, lo que significó una ofensa para los franceses. La III República perdió Alsacia y Lorena, que pasaron a ser parte del nuevo Reich germánico. Las generaciones francesas de finales del siglo XIX, sobre todo el Ejército, crecieron con la idea de vengar la afrenta recuperando esos territorios. En 1914 sólo hubo un 1% de desertores en el ejército francés, en comparación con el 30% de 1870. | |||
Mientras tanto, los países de los Balcanes liberados del Imperio Otomano (el «enfermo de Europa») fueron objeto de rivalidad entre las grandes potencias. Turquía, que se hundía lentamente, no poseía en Europa —hacia 1914— más que Estambul, la antigua Constantinopla. Todos los jóvenes países nacidos de su descomposición (Grecia, Bulgaria, Rumania, Serbia, Montenegro y Albania), buscaron expandirse a costa de sus vecinos, lo que llevó a dos conflictos entre 1910 y 1913, conocidos como Guerras Balcánicas. | |||
Impulsados por esta situación, los dos enemigos seculares del Imperio Otomano continuaron su política tradicional de avanzar hacia Estambul y los Estrechos. El Imperio Austrohúngaro deseaba proseguir su expansión en el valle del Danubio hasta el mar Negro, sometiendo a los pueblos eslavos. El Imperio Ruso, que estaba ligado histórica y culturalmente a los eslavos de los Balcanes, de confesión ortodoxa —ya les había brindado su apoyo en el pasado— contaba con ellos como aliados naturales en su política de acceder a «puertos de aguas calientes». Evidentemente, estas políticas opuestas entre una potencia católica y otra ortodoxa provocaron enfrentamientos. | |||
Como resultado de estas tensiones, se crearon vastos sistemas de alianzas a partir de 1882: | |||
de una parte, Francia, el Imperio Británico y el Imperio ruso (Triple Entente) y | |||
el Imperio alemán, el Imperio Austrohúngaro e Italia (Triple Alianza). | |||
A este período se le conoce como Paz armada, ya que Europa estaba destinando cuantiosas cantidades de capital al armamento y, sin embargo, no había guerra, aunque se sabía que ésta era inminente. | |||
La guerra comenzó como un enfrentamiento entre Austria-Hungría y Serbia, pero Rusia se unió al conflicto, pues se consideraba protectora de los países eslavos. Tras la declaración de guerra austrohúngara a Rusia el 1 de agosto de 1914, el conflicto se transformó en un enfrentamiento militar a escala europea. Alemania respondió a Rusia con la guerra y Francia se movilizó para apoyar a su aliada. Las hostilidades involucraron a 32 países, 28 de ellos denominados «Aliados»: Francia, los Imperios Británico y Ruso, Canadá, Estados Unidos (desde 1917), Portugal, Japón, así como Italia que había abandonado la Triple Alianza. Este grupo se enfrentó a la coalición de las «Potencias Centrales», integrada por los Imperios Austrohúngaro, Alemán y Turco, acompañados por Bulgaria. | |||
Историографире çак термина, паллах, 1939 çулта Иккĕмĕш Тĕнче вăрçи пуçланса кайнă хыççăн палăртнă. Унчен ăна Аслă вăрçă (акăлч. The Great War, фр. La Grande guerre), ятпа усă курнă.Раççей Империнче хăш чух Иккĕмĕш Тăван çĕршыв (Аттеçĕр) вăрçи, çапла та халăхра (революциччен те, хыççăн та) германи вăрçи тенĕ; кайран СССР вăхăтĕнче большевиксем ăна империализм вăрçи шутне куçарнă. | |||
Вăрçă умĕнчи истори | |||
1914 çулчен Европăра вырăнти пĕчĕк хирĕçӳсем пулнă (Балкан вăрçисем, Италипе турккă вăрçисем), анчах вĕсенчен пысăк вăрçăсем тухман. 1905 çулта Германи Раççейпе пĕрлĕхлĕ килĕшӳ (Бьёрк килĕшĕвĕ) тăвасшăн тăрăшнă, анчах та вăл пурнăçа кĕрсе вăй илеймен. 1914 çул тĕлне икĕ вăрçă-политикăлла блоксем тĕрекленнĕ. | |||
Антанта (1907 çулхи Аслă Британипе Раççей Пĕрлĕхĕ тĕпĕнчен пуçланса кайнă): | |||
Раççей Империйĕ; | |||
Аслă Британи; | |||
Франци. | |||
Виçъенлĕ Пĕрлĕх: | |||
Германи; | |||
Австри-Венгри; | |||
Итали. | |||
Итали вăрçăна Антанта енче 1915 çулта çеç кĕнĕ — çапах та Германипе Австро-Венгри çумне вăрçă вăхăтĕнчех Турципе Болгари хутшăннă, вара Тăватъенлĕ Пĕрлĕх (Тĕп (Европăри) патшалăхĕсен Пĕрлĕхĕ) пулса тăнă. | |||
Тĕп (Европăри) патшалăхсем: | |||
Германи; | |||
Австро-Венгри; | |||
Турци; | |||
Болгари. | |||
Антанта: | |||
Франци; | |||
Аслă Британи; | |||
Раççей; | |||
Япони; | |||
Итали; | |||
Серби; | |||
АПШ. | |||
Антанта майлисем (Антантăна вăрçăра пулăшнă): | |||
Черногори | |||
Бельги | |||
Греци | |||
Бразили | |||
Китай | |||
Афганистан | |||
Куба | |||
Никарагуа | |||
Сиам | |||
Гаити | |||
Либери | |||
Панама | |||
Гондурас | |||
Коста-Рика | |||
Вăрçă тапранса кайни | |||
Сараево хулинче 1914 çулта çĕртме, 28 «Млада Босна» вăрттăн ушкăнра тăнă вунтăхăр çулхи серб студенчĕ Гаврила Принцип Австри эрцгерцогне Франц Фердинанда пăшалпа пенĕ. Çакăн хыççăн ĕнтĕ вăрçă тапранса каять. Çак пысăк вăрçă пуçланичченех Европăри аслă патшалăхсем — Германи, Австро-Венгри, Франци, Аслă Британи, Раççей — хушшинче пĕр-пĕринпе килĕшмен самантсем чылайланса пынă. Германи экономики хăвачĕ хăпарса пынă май ăна тĕнчери сутлăх пасарĕсене тата пуянлăх управĕсене пайлас вăхăт çитсе тăнă, анчах çак ĕçсене Аслă Британи хирĕç пулнă. Французсемпе германсем чикĕ çумĕнчи тавлашуллă çĕрсемшĕн (Эльзаспа Лотаринги) хирĕçме тытăннă. Çывăх Тухăçра пĕтĕм патшалăхсем арканма пуçланнă Осман империйĕн (Турци) çĕрĕсене пайлама (хăйсен айне тума) хатерленсе тăнă. | |||
Çурла, 4 — германи çарĕсем Бельгине тапăнса кĕнĕ. Çав кунах Аслă Британи, Раççейпе Франци умĕнчи пĕрлĕх явăпĕсене пурнăçласа, Германине хирĕç вăрçă пуçланине пĕлтернĕ. | |||
1914, авăн (?)— пĕрремĕш (Марна çинчи) çапăçу. | |||
1914 çулхи Тухăç-Прус операцийĕ. | |||
Галицири çапăçу | |||
Вăрçă икĕ тĕп вăрçă театăрĕсенче пынă. | |||
Анăç тата Тухăç Европăра; | |||
Балканра, Çурçĕр Италиире, колонисенче — Африкăра, Китайра, Океанире. | |||
Юпа, 26 нимĕç шывайкимми U-24 (капитан-лейтенант Шнейдер) французсен «Амираль Гантом» пăрахутне торпедăланă. Пăрахут çинче вăрçă хăрушăвĕнчен таракан 2000 бельги çынни пулнă. Вĕсенчен 40 çын вилĕм тупнă. | |||
Вăрçă хронологийĕ | |||
1914 çулхи вăрçă кампанийĕ | |||
çĕртме, 28 Австро-Венгри Серби вĕсен ультиматумĕпе килĕшмен пирки (эрцгерцога вĕлернĕ серб террорисчĕсене тытса пама хушнă) Сербине хирĕç вăрçă пуçланнине пĕлтернĕ. | |||
çĕртме, 30 çакăн хыççăң Раççей çар мобилизаци тума пикеннĕ, вара Германи Раççей умне мобилизацине 12 сехет хушшинче чармалла тесе ультиматум лартнă. | |||
çурла, 1 — Германи Раççее хирĕç вăрçă пуçланине пĕлтернĕ. | |||
çурла, 2 — Германи Люксембурга оккупациленĕ те Бельги умне германи çарĕсене Бельги çĕрĕ витĕр Францине ирттерсе ямалла ультиматум лартнă. | |||
çурла, 3 — Германи Францине хирĕç вăрçă пуçланине пĕлтернĕ. | |||
1915 çулхи вăрçă кампанийĕ | |||
Горлица талпăнăвĕ | |||
Изонцо çинчи пĕрремĕш çапăçу | |||
Изонцо çинчи иккĕмĕш çапăçу | |||
Изонцо çинчи виççĕмĕш çапăçу | |||
Изонцо çинчи тăваттăмĕш çапăçу | |||
Вăрçă пуçлансанах тӳрех паллă пулать, çак хаяр кĕрешӳ тăсăмĕ вăрăм туртăмлă пулать. Антанта çĕршывĕсем, хăйсен вăйĕсем чылай пулсан та, пĕрлĕхлĕ ĕçсем тытса пырайман, çакăнпа уса курса Германи нумай тапхăр тапа тан вăрçма пултарнă. | |||
Пĕрремĕш ăстрăм вăрçă хирĕсенче çапăçусем çав тери анлă пулса каяççĕ, весенче чылай халăхлă çарсем хутшăнаççĕ. Çавăн пекех пирвай хут танксене, авиацийе, дредноутсене (карапсене), хими хĕç-пăшалне çапăçусене кĕртнĕ. Раççей çарĕсем пĕрре çеç мар тăшманăн дивизийĕсене хăйсем çине çавăрса тăмарĕсене пĕтĕмпех çапса аркатиччен хăтарса пынă. | |||
1916 çулхи вăрçă кампанийĕ | |||
Брусилов талпăнăвĕ; | |||
Сомма çумĕнчи çапăçу | |||
Ютланди çапăçăвĕ; | |||
Верден çумĕнчи çапăçу | |||
Изонцо çинчи пиллĕккĕмĕш çапăçу | |||
Изонцо çинчи ултăмĕш çапăçу | |||
Изонцо çинчи çиччĕмĕш çапăçу | |||
Изонцо çинчи саккăрмĕш çапăçу | |||
Изонцо çинчи тăхăрмĕш çапăçу | |||
1917 çулхи вăрçă кампанийĕ | |||
Изонцо çинчи вуннăмĕш çапăçу | |||
Изонцо çинчи вунпĕрмĕш çапăçу | |||
Изонцо çинчи вуниккĕмĕш çапăçу (Капоретто патĕнчи çапăçу) | |||
Нимĕçсемпе австро-венгăрсем çивĕч кĕрешнĕ пулин те, 1917 çул тĕлне çĕнтерӳ ĕçĕсем Антанта енне тайăлса пынă. Италия 1915 çулта Австро-Венгрине хирĕç вăрçă пуçлать. Антанта майлă АПШ тухать. 1916 , çурла Антантă çумне Румыни тăрать, анчах та ăнăçу çухалать; унăн çĕрĕсенегермани блокĕн çарĕсем йышăнаççĕ. Раççейри шалти ĕçĕсем хĕрсе кайнипе Февраль революцийĕ çĕнтерет, каярах Октябрь революцийĕ, çакăн хыççăн Раççей хăй шутпа вăрçăран тухса ӳкет (Брест мирĕ çырнă хыççăн), мĕншĕн тесен 1917 çулта Раççей вăрçă ĕçĕсене малалла тăсма пултарайман. Çак çăмăллăха пула Германи тепĕр çул хушши вăрçа тăсса пырать. | |||
1918 çулхи вăрçă кампанийĕ | |||
Витторио-Венето патĕнчи итальянсемпе австрисен çапăçăвĕ. | |||
1918 çулта чӳк уйăхĕнчи ăнăçусăр тапăну хыççăн (Анăç фрончĕ) Германире те революции пуçланнă (чӳк, 9 Вильгельм кайсера пĕрхĕтнĕ те Веймар республики йĕркеленĕ). | |||
1918 чӳк, 11 германии тата тăмарлă çарпуçлăхĕ Компьенре çапăçусене чарса лартнă, çакăнпа Пĕрремĕш Тĕнче вăрçи пăчланса ларать. | |||
Чӳк уйăхĕнче Австро-Венгри темиçе çĕршыва пайланса каять; монархи йĕркине пĕтерсе хунă. | |||
1919 çулта Парижри мирлĕ конференцире нимĕçсем Версаль килĕшӳ хучĕ çине ал пуснă. | |||
Çавăн чухнех ытти килĕшӳ хучĕсене çирĕплетнĕ: | |||
Германипе (Версаль килĕшĕвĕ 1919) | |||
Австрипе (Сен-Жермен мирлĕ хучĕ 1919) | |||
Болгарипе (Нейи мирлĕ хучĕ 1919) | |||
Венгрипе (Трианон мирлĕ хучĕ 1920) | |||
Турципе (Севр мирлĕ хучĕ 1920). | |||
Пĕрремĕш Тĕнче вăрçи хыççăн тăватă импери хавшакланса-саланса кайнă: Германи, Раççей, Австрипе Венгри тата Осман империйĕсем, юлашки иккĕшĕ пайланса кайнă, Германи тата Раççей монархийĕсен |
Revision as of 19:45, 1 May 2008
بوكيمون (بالإنجليزية: Pokémon ؛ باليابانية: ポケモン) هي سلسلة ألعاب فيديو تابعة لشركة نينتندو. معظم الألعاب هي من نوع الـ RPG ، و لكن هناك بعض الأنواع الأخرى ايضاً. الإمتياز ايضاً لديه لعبة البطاقات التبديل ، و أنمي ، و مانچا ، و ألعب عادية ، و كتب ، و أشياء أخرى .
سلسلة الألعاب هي فكرة وإنشاء ساتوشي تاجيري 1 في العام 1995 ميلادية ، و صدر أوائل الألعاب فيديو في اليابان على جهاز الچيم بوي النقال. يدور معظم مفهوم الألعاب ، و خصوصاً الألعاب الـ RPG ، عن الشخصية الاساسية في عالم خيالي ممتلأ بمخلوقات عجيبة التي تشبه الحيوانات يسمون بالـ"بوكيمون". الدور التي تمثل الشخصية الأساسية هي أن تغامر المنطقة التي تعيش فها ، و تمشي إلى براري المنطقة حتى يمكنها ملاحقة و إمساك بالبوكيمونات. البوكيمونات التي تتم الإمساك بها ثمة تدرب للقتل لحد يمكن الشخصية الاساسية أن تقاتل غير شخصيات مع بوكيمونات خص لهم.
التسمية لـبوكيمون (Pokémon) مأخوذة من تقصير الحروف لاتينية لالعلامة اليابانية "Pocket Monsters" (باليابانية كـ"ポケットモンスター" أو Poketto Monsutā) والتي تعني "وحوش الجيب" باللغة العربية. أشتهر بوكيمون في الولايات المتحدة في 1997 عندما صدرت شركة نينتندو لألعبتها المتعلقة بالبوكيمون.
مع التقدم إلى الجيل الرابع في سلسلة بوكيمون ، رسمياً هناك 493 نوع من البوكيمونات.
وصلات خارجيةالموقع الرسمي لشركة البوكيمون في الولايات المتحدة
1996年2月27日にゲームボーイ用ソフト『ポケットモンスター 赤・緑』が発売された。この作品が小学生を中心に口コミから火が点き大ヒットとなった。その後、他機種を含め続編や関連ゲーム、関連製品が数多く発売され、2007年現在で同タイトルを冠したソフトの売り上げは世界で1億6400万本以上となった。これはゲームキャラクター毎のシリーズ別で比較した場合、世界第2位の数値となる(1位はマリオシリーズの1億9300万本以上)。また、関連商品の売上は全世界で累計250億ドル以上にも及ぶ。
開発元はゲームフリーク、コンセプトメーカーにしてディレクターを務めたのは同社代表取締役でもある田尻智(ポケットモンスター (ゲーム)参照)。
1997年4月1日よりテレビ東京系列にてアニメ化もされており、主人公サトシ及びその仲間と彼らのポケモン達による冒険物語として大好評を博す(ポケットモンスター (アニメ)参照)。
多数登場するポケモンのキャラクター性も重要な要素の一つであり、中でもアニメの影響でピカチュウが様々な製品に取り上げられている。現在までに「発見」されているポケモンの数は492種となっている。デオキシスやミノムッチやアンノーンなど、細かく分けた場合は500匹を超える(ポケットモンスター (架空の生物)参照)。
また、ポケモンバトルの戦術性の高さを再現したトレーディングカードゲーム(TCG)『ポケモンカード』シリーズも制作されており、TCGプレイヤー層も巻き込んでファンを広げた(ポケモンカードゲーム参照)。
一方、アニメコンテンツが充実した頃を境にアメリカをはじめとする国々にも “Pokémon”の名称で商品展開を開始し、ゲーム・アニメともに好調な成績を収めている。
現在ではメディアミックスや国際的にも通用するキャラクター戦略の成功例として、日本経済新聞に紹介され、注目されている。日本経済新聞社主催の経済セミナーなどでポケモンをテーマとして講演をすることもある。
また、略称及び漢字圏以外での呼称である「ポケモン」は、ポケモン関係の商品を扱った事業を展開する会社名「株式会社ポケモン」にも使われている。
RPG作品としての『ポケットモンスター』
内容
『ポケットモンスター』シリーズは、「ポケットモンスター(以下ポケモン)」という不思議な生き物が生息する世界において、ポケモンを自らのパートナーとしてポケモン同士のバトルを行う「ポケモントレーナー」達の闘いを描くRPGである。
主人公(プレイヤー)は、ポケモントレーナーとなり世界を旅することになる。ゲーム内に存在する他のポケモントレーナーとの対戦を多数交え、ポケモンジムバッジを集めることで、ポケモンリーグの出場条件を得、ポケモントレーナーの頂点を目指す。また、多くのポケモンを捕まえることでポケモン図鑑の完成を目指すなどの目的がある。片田舎に暮らす少年(少女)が街へ行き、ライバルの少年(少女)との対決。さまざまな街での人々との出会い、ポケモンとの出会いと育成などストーリーは、少年(少女)時代の思い出に近いなど大人でも楽しめる深いものでもある。さらに、友達と対戦したりポケモンを交換できる通信機能がある。システム面などにおける詳細はポケットモンスター (ゲーム)を参照。
シリーズ一覧
日本では以下の各バージョンが発売・発表されている。カッコ内は発売日と対応機種を表している。 『赤・緑』系バージョン ポケットモンスター 赤・緑(1996年2月27日、ゲームボーイ) ポケットモンスター 青(1996年10月15日、ゲームボーイ)(コロコロコミックでの応募開始日。一般販売は1999年の10月10日) ポケットモンスター ピカチュウ(1998年9月12日、ゲームボーイ) ポケットモンスター ファイアレッド・リーフグリーン(2004年1月29日、ゲームボーイアドバンス) 『金・銀』系バージョン ポケットモンスター 金・銀(1999年11月21日、ゲームボーイ・ゲームボーイカラー共通) ポケットモンスター クリスタルバージョン(2000年12月14日、ゲームボーイカラー専用) 『ルビー・サファイア』系バージョン ポケットモンスター ルビー・サファイア(2002年11月21日、ゲームボーイアドバンス) ポケットモンスター エメラルド(2004年9月16日、ゲームボーイアドバンス) 『ダイヤモンド・パール』系バージョン ポケットモンスター ダイヤモンド・パール(2006年9月28日、ニンテンドーDS)
ゲーム開発の背景とヒットまでの経緯
ポケモン前史
収集・育成を楽しむ趣味や遊びは以前から存在していた。1971年-72年に「仮面ライダースナック」の仮面ライダーカードのコレクションブームがある。
1986年には、ファミコンでドラゴンクエストが、1987年にはファイナルファンタジーが発売されており、ポケモン発売の1996年までに多くの続編も発売され、その後も続く人気RPGシリーズとして定着している。
1988年-93年にはロッテの『ビックリマンチョコ』が、第10代目の天使悪魔シリーズのシール集めで爆発的なブームとなった。小学館は、自社の雑誌コロコロコミックやアニメを含む、大規模なメディアミックス戦略でこのブームを後押ししていた。この路線で、作り込み・対戦型おもちゃミニ四駆や収集・対戦型おもちゃバーコードバトラー、さらにはポケモンブームを後押しすることになる。
1989年、ポケモンの生みの親である田尻智は、「ゲームフリーク」を設立。最初のゲーム作品「クインティ」をナムコから発売した。クインティは「めくる」という動詞をコンセプトとするゲームである。
ゲームフリーク設立と同じ1989年、任天堂からゲームボーイが発売された。携帯機の特性上、パズルやアクションゲーム向けと見られていた。実際そうしたゲームは多数発売されたが、田尻はスクウェアのRPG『魔界塔士 Sa・Ga』の成功を見て、携帯機でもアクションでない分野を追求できると気づいた。
田尻はゲームボーイの通信機能に着目。「交換する」という動詞をコンセプトにしたゲームの着想を得た。田尻はその着想を基に、「カプセルモンスター」というRPGの企画書を書き上げた。田尻のイメージした「カプセルモンスター」とは、カプセルトイのようなケースに入ったモンスターが、通信ケーブルを行き来するものであった。田尻はこの企画書を任天堂に持ち込んだ。任天堂はそれを受け開発費の支出を決定した。1990年秋の事である。
後に「カプセルモンスター」の名称は、商標権の問題で商品名に使えないこと、略した時に「カプモン」となり語呂が悪いことなどから、現在の「ポケットモンスター」に改められた。
開発
「ポケモン」の納期は、当初1991年末だったが、RPGのノウハウ不足や、「交換する」という動機付けに手間取り、納期を超過した。不足する資金を補うため他のゲームを開発するなど、しばしば開発は中断された。1995年頃までに、『MOTHER2』を制作したエイプから新会社クリーチャーズの社長に就任した石原恒和(現・株式会社ポケモン代表取締役社長)が全体をまとめて方向付けを行う役を担うようになり、ゲームフリークと開発委託契約を結んで、プロデューサーとして数々の企画を任天堂などへと提案していく火付け役となった。そして当初から開発を支援した任天堂もまた、完成をねばり強く待ち続けた。
元々ゲームフリークのスタッフが仕掛けたコンセプトは、当時まだゲームボーイですらろくに着目されていなかった「収集、育成、対戦、交換」というゲーム要素を徹底的に遊ばせようという目論見でもあり、それを支えるべく、ゲームボーイの通信機能をフル活用して「2つのバージョンの間、または友達のソフトとの間で通信を行わないとポケモン図鑑が完成しない」「(強制ではないが)自分が育てたポケモンで友達と対戦できる」という仕様を盛り込んでいた。また個々のプレイデータには個別のIDと主人公の名前が与えられ、所有するポケモンに対して「親ID」として働き個々のポケモンをさらに個性化する、という仕様も持たせた。当初はプレイヤーIDによってソフト1本ごとに登場するポケモンが異なるという仕様だったが、複雑になりすぎるということで任天堂の宮本茂の提案により2バージョンに分けて発売する手法がとられた。そして当時の主流に比べかなり大容量のバックアップメモリを搭載する仕様に切り替え、150種類全てのポケモンを保存することが可能になった。そうした紆余曲折の末に、開発開始から6年後の1995年末にポケモン『赤・緑』が完成を迎えた。
発売
1996年当時、ゲームボーイに限らず携帯型ゲーム機市場は停滞状態を迎えていた。ゲームギアなどカラー表現が可能な後続機種もほぼ終息状態にあり、テレビゲームには「次世代機」と銘打ってプレイステーションやセガサターンが登場し、発売から丸6年が経っていたゲームボーイは次第に時代遅れと見られ始めていた。事実、『ポケットモンスター』発売直後の時点で、GBにて発売が予定されていたゲームソフトはわずか3タイトルである。
市場にはRPGだけでも既に多くのゲーム作品が発売されており、ゲームボーイでリリースされる『ポケットモンスター』も大きな期待を持たれない存在であり、初回出荷本数は23万本強に過ぎなかった。また、2色同時発売という販売手法は、当初はあこぎな商売とすら揶揄された。しかし、「収集、育成、対戦、交換」というゲーム要素は、徐々にユーザーたちの支持を得ていき、さらにユーザー間のコミュニケーションにより加速。制作側の期待や予測を越えた爆発的な好循環を生んだ。販売本数はゲームボーイ向け『赤・緑』系全体で最終的に1000万本を優に超したとされている。
「ポケモン後」の市場の変化
『ポケットモンスター』発売以降、ゲームボーイ市場、引いてはコンシューマーゲーム市場そのものは大きく変化した。
後続のゲームソフトはこぞって「収集、育成、対戦、交換」の要素を盛り込み、また2バージョン同時リリースの手法を採る作品も現れるなど、二匹目のドジョウを狙った。任天堂自身もその手のゲームの開発に力を注いだ他、「ポケモン頼み」のラインナップに切り替えるなどの露骨な路線を歩んだ時期もあった。しかしそれらは必ずしも成功したとは言えない。前者については、各社において販売本数に如実な差が付き、結局はゲームソフトの商品力が販売力を決めることを再認識させる結果となった(成功と言われているのはエニックスから後ほど発売された『ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド』、イマジニアの『メダロット』、アトラスの『真・女神転生デビルチルドレン』位であろう)。また後者については、任天堂にとって、顧客ユーザーの低年齢層への望まざる偏在化などを引き起こす一因となった。
ポケモン自体も、純粋な新作以外に多くの派生作品を生み出した(ポケットピカチュウ、不思議のダンジョンなど)。また、微妙な追加要素を含んだ新バージョン(青、クリスタル、エメラルド)もいくつか発売されている。派生作品の購入のさせ方が巧妙という批判もある(例えば2006年度の映画の前売り券についていた「極秘ミッション引換券」は、DS本体とポケモンレンジャーを持っていないとゲットできなかった。しかし、ユーザーの声に配慮してか、イベント配布等入手機会を増やすようになった)。
ポケモンはゲームのみならず、アニメ化やキャラクター商品化、カードゲーム化され、海外でも好評を得ている。そして、現在に至るまでその人気は継続している。
アニメ
詳細はポケットモンスター (アニメ)参照。また、アニメ本編以外にも週刊ポケモン放送局、ポケモン☆サンデーなどの番組がある。
劇場版
テレビシリーズとのギャップを感じる優れたCG映像処理や、毎年出演する豪華なゲストが特徴。
詳細はポケットモンスター (劇場版)を参照。
年末特番
年末に公開された長編作品。 ポケットモンスター ミュウツー! 我ハココニ在リ - 2000年12月30日公開。 ポケットモンスタークリスタル ライコウ雷の伝説 - 2001年12月30日公開。
10周年記念特別アニメ 戦慄のミラージュポケモン The Mastermind of Mirage Pokémon 「ミラージュシステム(Mirage system)」と呼ばれる機械をめぐるオリジナルアニメ。主題歌は"Pokémon Go"。 2006年4月に10周年を記念し、アメリカでテレビ放送された。2007年にはカナダでもテレビ放送された。 日本では、2006年10月13日(金)17:00から10月31日(火)24:00まで、初のポケモンネット配信限定アニメとして配信された。 ポケモン不思議のダンジョン 出動ポケモン救助隊ガンバルズ! 2006年9月8日に北米でのゲーム『ポケモン不思議のダンジョン』発売にさきがけてアメリカにてテレビ放送された。 日本では、2007年3月23日から5月14日に「ポケモンネット配信限定アニメ第2弾」としYahoo! Japanの動画コンテンツで配信が行なわれた。2007年には韓国でもテレビ放送された。 ポケモン不思議のダンジョン 時の探検隊・闇の探検隊 2007年9月9日に『ポケモン不思議のダンジョン 時の探検隊・闇の探検隊』発売にさきがけてポケモン☆サンデー内で放送された。 後に2007年9月13日から9月30日にあにてれで、9月20日から10月31日にYahoo! Japanの「Yahoo!きっずポケモン」にて、それぞれ動画の無料配信が行われていた。
関連商品・作品
関連ゲームソフト
対戦、保管ツール
ゲームボーイの本編ポケットモンスターシリーズで捕まえたポケモンを、よりよい環境で対戦したり、より多く保管することができるツールとしてのソフト。ポケモンが3D化されるのが最大の魅力。おまけ機能も充実している。 『ポケモンスタジアム』(NINTENDO64)/1998年8月1日発売 売上本数約137万本 従来の平面なゲームボーイでの対戦をNINTENDO64に移植することにより、ポケモンの3D化が実現した。ただ、急いで発売にこぎつけたためか対戦にポケモンは全種使用できず、40種に限られた。 プレイヤーのデータ等の読み込みは、ゲームボーイのカートリッジから64GBパックを介する形がとられている。後から、64DDの追加ディスクにより、キャラクターデータを追加する予定があったが、実現せず。 『ポケモンスタジアム2』(NINTENDO64)/1999年4月30日発売 売上本数約71万本 前作に各機能が強化され、当時の全ポケモン151種が参加できるようになった。また、日本国外でのポケモンスタジアムはこれが1作目。 対戦ルールは6種類と、シリーズ中でもっとも多彩である。 GB版のプレイでは複数から1匹選択しなければならなかったポケモンを、プレゼントという形でいくらでも入手することができる(しかも、それを『金・銀・クリスタル』に送ると他では入手不可のアイテムを持っている)。 『ポケモンスタジアム金銀』(NINTENDO64)/2000年12月14日発売 売上本数約114万本 『金・銀・クリスタル』に対応したバージョン。ミニゲーム、ポケモンに関する資料が豊富で、攻略本の代わりにもなる。スタジアム系ソフトの決定版との評判が多い。また、日本国外では2作目として発売された。 『ポケモンボックス ルビー&サファイア』(ニンテンドーゲームキューブ)/2003年5月30日発売 捕まえたポケモンを保管するのが主な目的のツール。1500匹まで預けられる。ポケモンを駒に変え、並べて眺めることもできる。『ファイアレッド・リーフグリーン』『エメラルド』にも対応。単体に加え、GBAケーブル同梱版も発売された。両者ともオリジナルカラーの「メモリーカード59」(クリアブルー&クリアレッド)が同梱。大容量である「メモリーカード251」「メモリーカード1019」には対応していない。 『ポケモンコロシアム』(ゲームキューブ)/2003年11月21日発売 『ルビー・サファイア・エメラルド』『ファイアレッド・リーフグリーン』に対応した対戦環境と機能を持つソフト。 今までと路線が異なるオリジナルのシナリオで、RPGとしてのポケモンを楽しむこともできる。オーレ地方を舞台に、何者かに心を閉ざされたポケモン「ダークポケモン」をスナッチ&リライブと呼ばれる方法で元に戻すのが主な目的である。『ルビー・サファイア』はおろか『ファイアレッド・リーフグリーン』でも入手できなかった『金・銀』のポケモンが多数入手できることが特徴。シナリオ中はすべてダブルバトルになっている。一方で、「スタジアム」シリーズと比較した不満の声も多く聞かれた。 オリジナルカラーのメモリーカード59(クリアブラック)同梱。 『ポケモンXD 闇の旋風ダーク・ルギア』(ゲームキューブ)/2005年8月4日発売 ストーリー的に『ポケモンコロシアム』の続編だが、完全な新作RPGという位置づけで開発された商品。だが基本は同じで、心を閉ざした「ダークポケモン」をスナッチ&リライブと呼ばれる方法で元に戻すのがシナリオの柱となっている。 メモリーカードは同梱されていない。 この作品には、ゴンベとウソハチの2種類の新ポケモンが先行登場している(ただし捕獲はできない)。 『ポケモンバトルレボリューション』(Wii)/2006年12月14日発売 ニンテンドーDSで発売される新作『ダイヤモンド・パール』と繋げることができ、『ダイヤモンド・パール』で登場する492種(現時点)のポケモンのバトルをWiiで遊ぶことができる。これまでの対戦型ソフトは初代『スタジアム』で作られたモデルやモーションが最新作である『XD』にもそのまま流用されていたが、本作では全てのポケモンのグラフィックが一新されており、実況も復活した。唯一のフレンド交換を掲示板でしなくてもWi-Fi対戦ができるツールとして優秀であった。だが、ルール設定が乏しいなど問題点も多い。
ポケモン世界体験型ゲーム
本編RPGの外伝的な作品。より奥深いポケモン世界を体験できる、ポケモンファン御用達ゲーム。 『ピカチュウげんきでちゅう』(NINTENDO64)/1998年12月12日発売 売上本数約74万本 音声認識システムNINTENDO64 VRS同梱 家庭用テレビゲームとしては世界初の音声認識を利用したゲーム。オーキド博士から与えられた翻訳機(ポケットヘルパー)を使い、ピカチュウとコミュニケーションを取りながら親睦を深めていく。音声認識システムには、NEC開発の「アルトーカー(LSI)」を採用。 『ポケモンスナップ』(NINTENDO64)/1999年3月21日発売 売上本数約49万本 ポケモン写真家のトオルが、ある島を訪れてポケモンの生態を写真に収めていく。アイテムを駆使することで、あらゆる場面を作り出せる。ファンサービスとしてか、オーキド博士が写真評価の役で登場する。Wiiバーチャルコンソールで配信中。 カセットをローソンに持ち込むと、写真データをシールにしてもらえるサービスもあった(現在はすでに終了)。 『ポケモンチャンネル ~ピカチュウといっしょ!~』(ゲームキューブ)/2003年7月18日発売 テレビ局「ポケモンチャンネル」から放映される番組をピカチュウと一緒に観たり、お買い物したり、様々な場所へ連れて歩くことで、親睦を深めていく。30分以上に渡るオリジナルアニメ「ピチュピチュブラザーズ」が収録されたことで注目された。ポケモン映画のプロモーション映像が収録された「番組拡張ディスク」と、カードeリーダー+用カード3枚を同梱。 『ポケモン不思議のダンジョン 青の救助隊・赤の救助隊』(ニンテンドーDS・ゲームボーイアドバンス)/2005年11月17日発売 『不思議のダンジョン』シリーズのポケモン版として作られた。開発はチュンソフト。ニンテンドーDS版「青の救助隊」とゲームボーイアドバンス版「赤の救助隊」が同時発売。 ポケモンだけが暮らす異世界を舞台に、人間からポケモンになってしまった主人公が友達(パートナー)になったポケモンと救助隊を結成し、ポケモン達からの救助依頼をクリアしながら自分がポケモンになった理由を探すローグライクゲーム。 この作品には、ルカリオ等ポケットモンスターダイヤ・パール登場予定のポケモンも先行登場していた。 2005年11月25日に、「青の救助隊」において、「赤の救助隊」以外の一部のGBAカートリッジをニンテンドーDSに刺したまま遊ぶとそのカートリッジのセーブデータが消えてしまう不具合が発表された。 『ポケモンレンジャー』(ニンテンドーDS)/2006年3月23日発売 フィオレ地方を舞台にした、ポケモンレンジャーになった主人公によるアクションアドベンチャー。レンジャーはキャプチャ・スタイラーという道具を使ってポケモンを仲間にできる。しかしレンジャーはポケモントレーナーとは違い、仲間になったポケモンを一度力を借りたら自然に帰さなくてはいけない(リリース)。 『ポケモン不思議のダンジョン 時の探検隊・闇の探検隊』(ニンテンドーDS)/2007年9月13日発売 副タイトルは「時の探検隊」「闇の探検隊」。コロコロコミック2007年6月号にて発表になった。 ポケモンだけが暮らす異世界を舞台に、人間からポケモンになってしまった主人公が友達(パートナー)になったポケモンと共に探検隊に入隊し、ポケモン達からの依頼をクリアしながら自分がポケモンになった理由を探すローグライクゲーム。 『ポケモンレンジャー バトナージ』(ニンテンドーDS)/2008年3月20日発売
ポケモンカード
30枚一組または60枚一組のデッキを組み、2人が対戦するカードゲーム。「サイドカード」と呼ばれる、ポケモンを「きぜつ」させたときに得られるカードをすべて取るか場にポケモンがいなくなった場合に勝敗が決まる。詳しくはポケモンカードゲームの項を参照のこと。 『ポケモンカードGB』(ゲームボーイ)/1998年12月18日発売 売上本数約139万本 トレーディングカードゲーム『ポケモンカードゲーム』をテレビゲーム化したもの。プレイするうちにルールをわかってもらうことを目的として作られ、対戦相手がいなくても手軽にプレイできるのが特徴。8人のクラブマスター、4人のグランドマスターに勝ち抜くことを目的としている。初期のスターターパックと第3弾までの拡張パックのほか、本ゲームオリジナルのカードも多数収録されている。 『ポケモンカードGB2 GR団参上!』(ゲームボーイ)/2001年3月28日発売 1作目の続編。拡張パック第4弾と拡張シートシリーズを新たに収録しただけでなく、GR団を倒していく設定になっており、ストーリー要素が充実している。ただし1作目との通信は不可能。
2作とも旧シリーズのポケモンカードがベースなので、ルールなどは現行と異なる部分も多い。
ピンボール、パズル
ポケモンを題材にしたピンボール、パズルゲームなど。ここでのポケモンは単にキャラクターとして扱われていることが多く、シナリオらしいものが存在するのも『ポケモントローゼ』だけである。 『ポケモンピンボール』(ゲームボーイ)/1999年4月14日発売 売上本数約102万本 ステージを行き来し、ポケモンを捕まえる要素を盛り込んだピンボール。持ち玉はもちろんモンスターボールで、玉や障害物もポケモンになっている。ボーナスステージなどもある。しかし、最大の特徴は本作に実装された電池駆動式の振動装置で、ゲーム画面上でポケモンの仕掛けにボールがヒットすると、そのたびにソフト本体がブルッと振動した。 『ポケモンピンボール ルビー&サファイア』(ゲームボーイアドバンス)/2003年8月1日発売 『ルビー・サファイア』に出てくるポケモンを扱った『ポケモンピンボール』。基本的なシステムは前作と同じ。 『ポケモンでパネポン』(ゲームボーイカラー専用)/2000年9月21日発売 スーパーファミコンで発売されていた『パネルでポン』(インテリジェントシステムズ開発)のシステムはそのままに、キャラクターを『金・銀』を中心としたポケモンに変更した落ち物パズル。 パズルゲームとしては評価は高いものの、登場するポケモンはごく一部であり、ゲームジャンルが異なる事もあり、ポケモンファンからはあまり支持を得られなかった。 日本国外では同じく『パネルでポン』のシステムを流用し、アニメ版のキャラクターを採用した『Pokémon Puzzle League』(ポケモンパズルリーグ)がNINTENDO64で発売されたが、日本では権利問題により未発売となった。 『ポケモントローゼ』(ニンテンドーDS)/2005年10月20日発売 ポケモンの顔をしたコマを縦か横に並べて消す(トローゼする)パズルゲーム。他の作品と打って変わりポップなキャラクターデザインが採用されている。ただしポケモン全種をコンプリートするのがかなり難しい。 『ポケモンピクロス』(ゲームボーイ・ゲームボーイカラー)/未発売 ポケモンのキャラクターを問題に採用したピクロス。1999年春に各ゲーム誌で画面写真が公開されたが、その後続報は無いまま発売されなかった。しかし1999年4月1日からニンテンドウパワーで供給されたスーパーファミコン用ソフト『ピクロスNP vol.1』にはポケモンの問題が10問程度収録されている。
レース
ポケモンを使ったレースゲーム。 『ポケモンダッシュ』(ニンテンドーDS)/2004年12月2日発売 ニンテンドーDSの特徴である「タッチペン(スタイラス)」を使ったレースゲーム。画面にタッチペンをスライドさせる事でピカチュウをその方向にダッシュさせる事が出来る。また、「DSワイヤレス通信」を使用した通信対戦で、最大2-6人の対戦が可能。ただし、使えるキャラクターはピカチュウのみである。 さらに、レギュラーカップクリア後に、ニンテンドーDS本体に本ゲーム対応のゲームボーイアドバンス用ソフトも差し込めば、GBA用ソフトの手持ちポケモンのデータを送り込む事ができ、GBA用ソフトの手持ちポケモンの形をしたマップが登場する。 この作品において、映画版に先行登場したゴンベがゲームに初登場した。
その他関連商品 ポケモンカードゲーム(共通) ポケットモンスターをモチーフにした、トレーディングカードゲーム。プレイヤーをポケモントレーナーに見立て、ポケモン同士のバトルをトレーディングカードゲーム形式の対戦で再現している。 ポケモンずかんカード カードダスのブランドで発売されているカード。ゲーム要素は無い。 ポケモンバトルカードe+ 『ルビー・サファイア』にゲストトレーナーを呼び込んだり、特殊なアイテムを手に入れるためのカードe+。12種類のパッケージが存在する。 ポケモンコロシアム ダブルバトルカードe+ 『コロシアム』にバーチャルトレーナーを呼び込むカードe+。4種類のパッケージが存在する。 ポケモンバトルカードe+ ファイアレッド&リーフグリーン 『ファイアレッド・リーフグリーン』のタイムアタック系イベント「トレーナータワー」を強化するカードe+。全44枚。読み込む枚数及び順番によりトレーナータワーの内容と賞品が変化する。 ポケモンバトルカードe+ エメラルド 『エメラルド』の「トレーナーヒル」のタイムアタック系イベント「トレーナーヒル」を強化するカードe+。全66枚。概要は上記と同様だがマップ構造も変化させる。 ポケットピカチュウ ポケモンミニ ポケモーション バトルえんぴつ(バトエン) みつけてピカチュウ しっぽでバンバン CD「ポケモンサウンドトラック」シリーズ アニメ版ポケットモンスターシリーズの主題歌はたびたび一新されており、既にかなりの曲数に上っている。以下に挙げるCDもそのごく一部である。最初の主題歌『めざせポケモンマスター』は純粋なアニメソングとしては異例の185万枚のミリオンセラーとなった。 『めざせポケモンマスター'97』 『ポケモンサウンドトラック セレビィ時を越えた遭遇』 『ポケモンサウンドトラック 水の都の護神ラティアスとラティオス』 小説「ポケットモンスター The animation」シリーズ(スーパークエスト文庫) アニメの初代脚本家・首藤剛志氏著書の「小説版ポケットモンスター」。アニメ第一話~第七話までの内容がノペライズ化されている。現時点では、二巻まで発売されている。 『ポケットモンスター―The animation(Vol.1)』 ISBN 4094405410 『ポケットモンスター―The animation(Vol.2)』 ISBN 4094405429 ゲームブック「ポケットモンスター」(アスペクト・ファミ通ゲーム文庫) 雑誌 小学館スペシャル「ポケモンワンダーランド」(不定期刊行)
ポケモンが登場する作品リスト
漫画 『ポケットモンスター』穴久保幸作 『ポケットモンスター R・S編』穴久保幸作 『ポケットモンスターSPECIAL』シナリオ:日下秀憲・作画:真斗→山本サトシ 『電撃!ピカチュウ』おのとしひろ 『ポケットモンスターアニメコミック サトシとピカチュウ』てしろぎたかし 『劇場版ポケットモンスターAGスペシャルコミック 七夜の願い星 ジラーチ』大内水軍 『劇場版ポケットモンスターAGスペシャルコミック 裂空の訪問者 デオキシス』てしろぎたかし 『劇場版ポケットモンスターAGスペシャルコミック ミュウと波導の勇者 ルカリオ』伊原しげかつ 『ポケットモンスター PiPiPi★アドベンチャー』月梨野ゆみ 『ポケットモンスター チャモチャモ★ぷりてぃ♪』月梨野ゆみ 『ポケットモンスター金・銀 ゴールデン・ボーイズ』斉藤むねお 『ポケットモンスタールビー・サファイア まんがで読む三ツ星攻略』日下秀憲・吉野恵美子 『ポケットモンスターエメラルド 挑戦!バトルフロンティア』伊原しげかつ 『ポケットモンスター 4コマギャグ劇場』姫野かげまる 『ポケットモンスター 4コママンガ劇場』向水遥他 『ポケットモンスター 4コマDX』山本まるみ 『ポケットモンスター 4コマギャグバトル』 『ポケモン 4コマ笑事典』やましたたかひろ 『ポケットモンスター 4コマ大百科』やましたたかひろ 『ポケモン4コマまんが全集』春風邪三太 『ポケモンゲットだぜ!』あさだみほ 『ポケモンカードになったワケ』姫野かげまる 『まんが版 ポケットモンスター全書』中村里美 『めざせ!!カードマスター』印照 『ポケットモンスター おはなし超ひゃっか』 『ポケモンえにっき ポケモンじまのなかまたち』ふくやまけいこ 『ポケモンダイヤモンドパール4コマ百科』松島リュウ 『ポケモンだにへ ピカチュウのだいぼうけん』小北和哉・天野雅栄 『ポケモン不思議のダンジョン ギンジの救助隊』溝渕誠 『ポケットモンスターダイヤモンド・パール外伝 ポケモンDP』伊原しげかつ 『ポケモン不思議のダンジョン 炎の探検隊』溝渕誠 『ピカチュウはめいたんてい』 『ポケモンコロシアム スナッチャーズレオ』大内水軍 『ポケモンXD 闇の旋風ダーク・ルギア スペシャルコミック』日下秀憲・三徳信彦 『出動!ポケモンレンジャー』あさだみほ Webコミック『Wミッションストーリー ポケモンレンジャー the Comic』日下秀憲・山本サトシ 『ポケモンレンジャー“キャプチャ”マスターへの道』吉野恵美子・構成:十八VAN PLANNING 『ポケモンバトル ピカチュウのわくわく大ぼうけん』あさだみほ 『劇場版ポケットモンスターAGスペシャルコミック ミュウと波導の勇者 ルカリオ』あさだみほ 『劇場版ポケットモンスターAGスペシャルコミック ミュウと波導の勇者 ルカリオ』日下秀憲・吉野恵美子 『ポケパーククイズ&パズル』上田未知 『ポケモン不思議のクイズダンジョン ぴかチャモ救助隊』上田未知 webコミック『ポケモン不思議のダンジョン 時の探検隊 闇の探検隊』杉森健 『劇場版ポケットモンスターDPコミック ディアルガVSパルキアVSダークライ』鷹岬諒
ゲーム 大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ 『ニンテンドーオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』(NINTENDO64) 『大乱闘スマッシュブラザーズDX』(ゲームキューブ) 『大乱闘スマッシュブラザーズX』(Wii)
関連施設・イベント
ポケモンのラッピングをした名鉄の快速特急電車(ミュースカイ号) ポケモンセンター - オリジナルも含め、数多くのポケモングッズを取りそろえるショップ。ポケモンのキャラクター戦略の拠点として、各国・各地の店舗やオンラインまで、多角的に展開する。名称の由来は、ゲーム内の都市や町に存在する施設「ポケモンセンター」(ひんしのポケモンを元気にしたり、他のプレイヤーとの対戦やポケモン交換をする施設)から来ている。 ポケモンセンタートウキョー(1998年4月25日開店)当初は八重洲に店舗を構えていたが、秋葉原に新しく設立された東京アニメセンターにも参入したため、浜松町に移転した。 ポケモンセンターオーサカ(1998年11月14日開店) ポケモンセンターナゴヤ(2002年10月11日開店) ポケモンセンターフクオカ(2003年11月1日開店) ポケモンセンターヨコハマ(2005年3月15日開店) ポケモンセンターサッポロ(毎年夏と冬に営業する季節営業店) ポケモンセンターニューヨーク(2001年11月16日開店。現在は任天堂総合ショップとしてリニューアル) ポケモンセンターオンライン(2001年3月21日開店 2006年11月30日休店) ポケモンセンターモバイル(2003年9月29日開店 2006年11月30日休店) ポケモンセンター夏まつり・冬まつり - 有名百貨店などで開かれる季節限定イベント。 ポケパーク - ポケモンの世界観をモチーフにした遊園地。2005年に名古屋、2006年に台湾で開催。名古屋での詳細はPokémon The Park 2005を参照。 ポケモンフェスタ - 小中高校の夏期休暇期間に開催される、ポケモン及び任天堂ハードゲームの展示ショウ等のイベント。携帯ハードゲームやカードゲームの公式大会等も行われる。 JR東日本ポケモンスタンプラリー○○○○(その年) - 小中高校の夏期休暇期間に開催される、JR東日本、東京の首都圏の駅を舞台としたスタンプラリー企画。1997年から開催(2001年除く)。名鉄など一部の私鉄でも実施。→スタンプラリーを参照 セブン-イレブンポケモンスタンプラリー○○○○(その年) - 2005年の夏から開催。セブンイレブンの店舗を回り、スタンプを集める。 ポケモン列車 - JR東日本が上記のスタンプラリーの一環として、山手線でポケモンのラッピングをした列車をほぼ毎年夏に運行しているほか、名古屋鉄道でも2007年の春から夏にかけて映画の宣伝キャンペーンのため、運行されていた。 ドミノ・ピザポケモンドミノキッズひろば - 2008年の春からイメージキャラクターとして起用。ポケモンのグッズがもらえるピザやクイズも登場。
ポケットモンスターに関する様々なニュース・出来事
日本 バンダイのアンケート ポケモンブームを象徴する出来事として、バンダイが1998年に実施した「好きなキャラクター」のアンケートで、ポケットモンスターが男児・女児共に第1位を獲得した。支持率は男児27.7%、女児27.4%。 ポケモンショック(別名:ポリゴン事件・ポケモンパニックなど) 1997年12月16日(火)の18:51:34に、テレビ東京系で放送されたアニメ版ポケットモンスター第38話「でんのうせんしポリゴン」中の演出効果に激しく画面が明滅するものがあり、これを原因として同作の視聴者、主に幼児から中学生を中心として全国で500人以上(ビデオなどでの視聴者を含めると700人以上)が突然痙攣などの症状を起こし、病院に搬送されるという事態が起こった。この事件の詳細については、該当する項目を参照。 「ルージュラのクリスマス」 1997年12月23日に放送予定だったアニメ版幻の第39話。上記「ポケモンショック」で放送が一旦打ち切りとなり、後の放送再開時(翌年春)に第39話として放送されたのは「ピカチュウのもり」だった。「ルージュラのクリスマス」は、後に真夏に番外編として再放送され、ビデオにも短編映画と一緒に収録された。番外編とした理由としては「ポケモンショック」前に制作されていた「ルージュラのクリスマス」以降の話では、冬に放送予定だったため夏の放送では季節があわない事。他に主人公の手持ちポケモンの一匹ヒトカゲがそのまま登場しているが、放送再開後ポケモンショック後に製作された話を優先して放送し、ポケモンショック前に製作されたヒトカゲが登場する話の前に、ヒトカゲがリザードンに進化してしまい、ポケモンが進化前の状態に退化する設定は無い為つじつまが合わなくなったためだと思われる。同様の理由で番外編扱いとなったストーリーが他に3作ある。 ポケモン同人誌事件 アニメ版ポケットモンスターが人気絶頂の頃、同人誌即売会「コミックマーケット」(コミケット、コミケ)にて、ポケモンのキャラクターを用いた同人誌が販売された。この同人誌を偶然(異説有り。リンク先参照)入手した任天堂社員が本社へ報告し、問題の同人誌を入手した任天堂はイメージダウンにつながり、アニメなどのキャラクター戦略に影響すると考えたため、著作権法違反(複製権侵害)で京都府警に被害届を提出した。 通常なら容疑者の逮捕はその居住地域を管轄する地方警察が逮捕や取調べを行うことになっているが、このときは京都府警が容疑者である作家のもとに赴き、逮捕後京都まで容疑者を護送するという異常事態が起こったのである。そして当該同人作家は起訴され、罰金が科せられた。この事件については真偽不明の様々な噂が流れ、インターネット上の掲示板などを中心に騒ぎが起こった。 世界的人気順位に関する話題 テレビ朝日の『決定!これが日本のベスト』の統計によれば、ポケモンは日本国外で2位の人気だと言われている。
日本国外 日本以外でポケットモンスターと呼ばない理由 アメリカで『Monster in My Pocket』という商標が既に登録されていた為、多くの国々ではタイトルの省略形「ポケモン(POKÉMON)」を採用した。日本国内版においても「ルビー・サファイア」以降は英語表記がそのようになっている。なおÉの上のアクセント記号はこのEが黙字でなく発音をもつEであることを表す。しかしそれでも、英語ではアクセントのない母音を「エ」と発音することは難しいため「ポキモン」と発音されることが多かった。その為、日本国外の担当者が任天堂に「POKÉMON」の発音を教わることが多く、結果として日本国外での「ポケモン」の発音は関西訛りになった。 ただし、一般消費者は今もなお「ポキモン」と発音していることが多い。 この他、英語圏(特にアメリカ)においては、「ポケット」という単語に男性器を連想させるニュアンスがあるため、「ポケットの化け物」では子供の遊ぶ健全なゲームのタイトルとしては不適切である、という判断も変更理由の1つと言われる(「ポケットモンスター」自体が卑猥なスラングとして使われているわけでは無く、「ポケット」は「ポケットに入るくらいのサイズ」という意味なので誤解無きよう)。 中国語においては意訳が採用されており、台湾では『神奇寶貝』(訳: 不思議な宝物/赤ちゃん)、香港では『寵物小精靈』(ペット妖精)である。正式に翻訳される以前は、『口袋怪物』等の直訳が用いられることもあった(口袋はポケットの意)。 日本国外展開 「ポケットモンスター」は1998年にE3に出展(一部のポケモンの名称が製品版と異なる)。同年9月7日にアメリカでTVアニメの放送がスタートし、同28日にゲームボーイソフト「POKÉMON」が価格29ドル95セント、星条旗の色と同じ「赤」と「青(ただし、内容は緑と同じ)」の発売を開始。これを皮切りに、各国でTVアニメの放送とソフトの発売を開始。英語版YELLOW(和名:ピカチュウバージョン)はゲームソフトにおけるミリオンセラーの最短記録としてギネス・ワールド・レコーズに載った。 1999年11月12日に劇場映画「Pokémon The First Movie」(日本版名:ミュウツーの逆襲)が、全米3000館で公開され興行収入8000万ドル、その他の国々で9100万ドルを記録した。この作品のサウンドトラックCDは初回出荷枚数100万枚、全米チャート8位を記録。続編も順次公開されている。 アメリカで「ポケットモンスター」がアニメとして広く受け入れられた理由としては、(アメリカ人から見て)「ポケットモンスター」がアメリカのカートゥーンのようにシンプルなストーリーの作品であること、ゲームソフトとのメディアミックスが功を奏したこと、オリジナルの日本版から日本的なものを差し替えるなどして日本色を薄めたことなどが挙げられる。一方、アメリカの大人のアニメファンからは厳しい評価が下されている。 日本国外版のゲームソフト 北米版ではポケモン名・地名・人名などは英語に直された。民家の仏壇が「ディグダの像」に、アイテムの「饅頭」「煎餅」が「キャンディバー」「クッキー」になるなど日本的なものは差し替えられることが多い。なお、北米版に続き各国で発売されたソフトは英語名を元にしている部分が多々ある。 ゲーム内容はほぼ変化はないが、『金・銀』で一部ポケモンの出現種が異なったり、『ポケモンコロシアム』ではボーナスディスクでの入手ポケモンが差し替えられている。 GBソフトである『金・銀』までは名前文字数の関係からか日本国外版との通信は正常に働かないが、GBAになりデータ形式が一新された『ルビー・サファイア』からは日本国外版との通信が可能となっている(→増田部長のめざめるパワー(2004年8月6日))。一部の通信では一時的に文字化けすることが確認されているが問題はない。『ポケモンコロシアム』でのボーナスポケモンは日米で異なるが、これはポケモンの特長である通信交換を世界規模で行って欲しいという考えの表れとも考えられる。 ニンテンドーDSの『ダイヤモンド・パール』では、異なる言語のソフトで手に入れたポケモン(2007年7月末現在本作の北米版・欧州諸国版が発売されているが、国外版の『ルビー・サファイア』等で手に入れたポケモンでも可。ただし全てのポケモンではなく特定の種族に限る)を通信で手に入れると、ポケモン図鑑にその言語での解説文が追加される。ニンテンドーWi-Fiコネクションを利用した世界規模の通信が可能であることもゲーム内で示唆されている。 ただし、現時点で異なる言語のソフトと通信可能なケースはGBA版(ルビー・サファイア・エメラルド・ファイアレッド・リーフグリーン)同士、DS版(ダイヤモンド・パール)同士の場合のみである。データ自体に互換性は存在しても、GBAケーブルやニンテンドーDSのダブルスロット機能を利用したデータのやりとりは行えない。例えば前述のように日本版のポケモン図鑑に他言語解説を追加する場合、海外版GBAソフト→日本版GBAソフト→日本版『ダイヤモンド・パール』、または海外版『ダイヤモンド・パール』→日本版『ダイヤモンド・パール』という手順でポケモンを送らなくてはならない。
CESAとの関係 第1回CESA大賞(現・日本ゲーム大賞)にて、社会現象を起こすほどの知名度等から大本命視されながら、コアユーザーの組織票(選考基準に大きく関わる)等により大賞を逃してしまった(このときの大賞はセガサターンの「サクラ大戦」。意外に思われるが、ポケモンは無冠である)。それ以来、大賞等の選考基準等に不透明さが残っている。そのため、いまだにゲーム雑誌等で批判が残っている。また、2007年9月現在、ポケモンシリーズの作品で高位の賞を受賞した作品は一本もない。 ポケモンショック直後、CESAがこの事件に関して一切関与しないというコメントをしたことは特筆事項である。 東京ゲームショウ(CESA主催(日経BP協賛))開催当時から、任天堂は参加には消極的であったが、ポケモンショック以降、ポケモン関連作品が高位賞に受賞しない等、任天堂と業界団体ともシコリを残していたが、近年、JAPAN国際コンテンツフェスティバルをはじめとした経済産業省管轄のイベントへの出展が多く、東京ゲームショウへの参加も期待されていたが、結局は参加は見送られた。
その他 作品中の名前などの由来 各作品中の固有名詞は、例えば『赤・緑』系、『金・銀』系では各街の名前が色の呼び名(特に日本語での古式ゆかしい名称)で統一されているなど、何らかのコンセプトに沿って命名されている。なお『赤・緑』系のスタート地点となる町「マサラタウン」は、「何色にも染まっていない汚れなき色」という意味で「まっさら」から付けられている。 また同じくジムリーダーなど主な登場人物の人名は、主に花などの植物の和名をアレンジしたものがつけられている。オーキド博士も英語のorchid(オーキッド:蘭)、ナナカマド博士もナナカマドからきていると思われる。 ポケモンの舞台となっているカントー地方、ジョウト地方、ホウエン地方、シンオウ地方は、それぞれ関東地方、東海~関西地方、九州地方、北海道地方がモデルになっている。 ポケモンおじさん 2000年頃にかけてポケモン関連のテレビCMにレギュラー起用されていた綿引勝彦は当時、ファンの間から「ポケモンおじさん」と呼ばれていた。もちろんそれは広告戦略上の役作りの結果であるのだが、ヤクザ映画やNHK大河ドラマにも多数出演している強面の綿引がポケモンゲームにはまっていく様子を愛嬌たっぷりに描いたCM群は、当時大きな話題を呼んだ。 『ピカチュウげんきでちゅう』TVCM(1998年末、綿引初登場) 『ポケモンスナップ』TVCM(1999年春) この時の綿引を再起用したことにより、「ポケモンおじさん」というキャラクターが明確になっていく。 『ポケモンスタジアム金銀』のCMを最後に担当が替わり、『ルビー・サファイア』では別のタレントが起用された。
ポケットモンスターに関する様々な逆風 この節の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。
ポケモンが人気になる一方、様々な思想との間で批判や衝突も起きている。日本国外では、思想や宗教感の違いによるものも起きている。
日本 ポケモンショック等をきっかけとしたCESAとの対立。 都内小学校などで、「ポケモンバトル」と称して常々いじめられる者同士を喧嘩させる等のいじめの様式が報告され、教育上好ましくないというレポートが提出された(結局、「ポケモン」の社会的好感度が上昇傾向にあった時期だったのと、いじめ自体が問題ではあっても、ポケモンそのものがいじめを誘発しているとは言い難いので、事実上立ち消えとなった)。 1990年代後半以降の小学生男子は、半ズボンの着用をやめ、ハーフパンツを着用しているが、敢えて半ズボンを着用しようとした者が現れた場合、自薦の用心棒が現れて「短パン小僧」の呼称で嘲笑し、半ズボン着用をやめさせる(東京新聞1999年5月20日)。半ズボン復活の立場に立つ者が、広報部を通して任天堂商品開発部に抗議を申し入れた。 様々なゲームの中でも群を抜くバグの多さが一部で話題となり、アイテムの増殖や本来覚えることが出来ない技をポケモンに覚えさせるなどのゲームバランスを大きく崩す裏技がネット上に氾濫した。その多くはセレクトボタンを使用することから、2ちゃんねるなどでは「セレクトボタンを押せば何かしらバグるゲーム」と揶揄される一方、敢えてバグを楽しむプレーヤーも現れた。(但し、出荷ごとにバグフィックスを行うなど、適切な企業努力は行われている。後期出荷のものはほとんどバグが発生しない。また、GBA世代からは、外部からのパッチによるバグフィックスが可能となっており、実際に適用された例もある) 埼玉トヨペットのタイアップ企画で「ポケモンカー」を展示しているが、同車を展示している展示場に渡ろうと横断歩道の無い道路に飛び出した子供が轢かれて死亡するという事故が発生した。
日本国外 「ポケモンは、悪魔召喚を連想させる」との意見がある。たとえば、日本人は悪霊でも祀ることがあるが(菅原道真公など)、厳格なキリスト教徒にとっては悪魔の存在は禁忌である。 エスパーポケモン「ユンゲラー」に対し、ユリ・ゲラーが名誉毀損として提訴。スプーンを曲げる超能力系キャラとして、自分のイメージを勝手に使われたとして抗議。このとき、任天堂側の弁護士が機転を利かし、裁判中「このキャラクターは超能力が使えます。もし貴方とこのキャラクターが似ているというなら是非ここで超能力を使ってみてください」と冗談と皮肉を混ぜた口上でユリ・ゲラーを沈黙させ、結局すぐに控訴を取り下げた、と言われている。これの影響からか、ポケモンカードe~ポケモンカードゲームまでは、「ケーシィ・ユンゲラー・フーディン」の進化系列が収録されていない。ポケモンカードゲームDP拡張パック第2弾「湖の秘密」で、数年ぶりにケーシィ・フーディンが収録された。しかしユンゲラーのみ収録されず、代わりというように、ケーシィはユンゲラーをとばしてフーディンに進化できるワザを覚えていた。 ひとがたポケモン「ルージュラ」の黒い皮膚や大きな唇が黒人差別を助長するという批判を受け、(制作スタッフが人種差別を意図していないにもかかわらず)海外版のポケモンアニメでは「ルージュラのクリスマス」のエピソードが欠番扱いとなった。(en:Pokémon episodes removed from rotation参照)この件を受けてファイアレッド・リーフグリーン以降公式的に肌の色は黒色からあずき色に変更された。 ポケモンカードの「キョウ秘伝、変わり身の術」日本版に描かれている卍(まんじ)の文様がナチス・ドイツの鍵十字を連想させるとして、アメリカのユダヤ人団体からクレームがつけられ、回収騒動が起きた。輸出版からは誤解を避けるために卍が削除されていたが、アメリカのポケモンマニアがオリジナルである日本版を欲して輸入したため、日本の文化を理解せずクレームがついたためと言われる。 日本からポケモンカードのプレミアカード(生産数がレアカードより更に少なく、大変希少価値がある)を空輸した際、空港からの輸送をシークレットサービスが行なった。これも世界各国でのポケモン人気が高まり、また上記の様なポケモンカードが関連した事件が発生していた為に行なわれたと思われる (ただし、わざわざ空港でシークレットサービスの担当者が箱からカードを取り出し、マスコミの前にカードをさらす様な事をしていたのでデモンストレーションの可能性もある)。 アメリカのアニメ番組『サウスパーク』で本作をパロディ化した話「チンポコモン」が1999年に放送された。強烈な諷刺が込められた話で、前述のポケモンショックをもネタに取り込んでいる。 1998年頃、ピカチュウの虐待画像などを公開する「ポケモン虐待」サイトが登場。日本のメディアにも取り上げられる。
イスラム諸国
2001年にイスラーム原理主義的な思想の色濃いサウジアラビアの法学者が、ポケモンをハラーム(禁忌。心を悪くする行為の意)であると宣言して以来、イスラーム諸国にはポケモンの可否をめぐる論争が飛び火した。更にマレーシアなどでもポケモンが反イスラームではないかと保守派ムスリム法学者から疑われるようになった。更には一部で『ポケモンはシオニズムの宣伝メディアであり、イスラム教徒をユダヤ教に改宗させようとするたくらみの一環である。』『「ポケモン」とは「私はユダヤ人である」の意味である。』『「ピカチュウ」とは「ユダヤ人になれ」の意である。』などと全く根拠の無いデマまで広まった。 最終的にドバイなどイスラーム保守派に支配された諸国ではポケモンを反イスラーム的と認定し、ゲームやグッズの販売制限を行った。また騒動の発火点であるサウジアラビアやカタールではポケモン自体がハラームとされ全面禁止された。 サウディアラビアの法学者がポケモンをハラームとし、保守派ムスリムがそれに賛同している理由は、 ポケモンの後天的形態変化は生物学では『変態』と呼ばれるものであるが、ポケモンではこれを『進化』と呼んでいる。進化論は保守派イスラームからはコーランの無謬性を汚すとしてハラーム扱いを受けており、このため彼らからすればポケモンもハラームとされる。 賭博はイスラームではハラームであるが、カードを交換しながら揃えていくというポケモンカードゲームのやり方が保守的ムスリムからは賭博であるとみなされる。 エスパーポケモンやゴーストポケモンなどが悪魔や魔法使いを連想させる。 ダビデの星などシオニズムを示唆するものや十字架などキリスト教のシンボルがある。これは『ポケモンはイスラーム教徒を堕落させようとする試み』という前述の全く根拠の無いうわさが広まる原因ともなった。
などがあげられている。
トルコでは子供が自分のことを『ポケモン』と錯覚しバルコニーから飛び降りて怪我をしたため、一時アニメの放映が中断された。
事件・事故 アメリカでポケモンカードのレアカード(生産数が少なく入手が困難なカード)を奪われたとして、奪われた子供の兄がカードを奪った子供を射殺(*この件については、概要のみ把握、詳細は把握せず)。 子供がモンスターボールを模ったカプセル型の玩具を口に当てて遊んでいた所、鼻と口を塞がれて窒息死した。世界各国でのポケモン人気が高まっていた頃の事件だったために注目を集め、ニュースで取り上げられたものと思われる。 アメリカ人の子供がベランダで、「僕は鳥ポケモンだ、空も飛べるんだ」と叫んで飛び降り、その子供は死亡(その後の詳細不明)。尚同様の事件はトルコでも発生した。こちらは10歳の女の子で、大怪我をしたものの命に別状は無く、助かっている。 アメリカの中学生が「ピカチュウの電気ショックを体験してみたい」と言って針金をコンセントの穴に入れて気絶。命に別状は無かったが、同様の事件の発生を防ぐためアメリカで報道された。 stripovi, TCG, igračke, knjige i razni drugi mediji. Ime Pokémon skraćenica je japanske izvorne riječi ポケットモンスター Poketto Monsutā (ili "Pocket Monsters" na engleskom i "Džepna čudovišta" na hrvatskom jeziku) te je kao takva, veoma česta u Japanu. U početku, Nintendo je doslovno preveo Poketto Monsutā – i, doista, "Pocket Monsters" videoigra ubrzo je nastala iste 1995. godine. 1996. godine dolazi do konflikta u Nintendu te uvjetuje promjenu imena iz "Pocket Monsters" u "Pokémon". Glavna fraza igre u japanskoj verziji bila je ポケモンGETだぜ! (Pokémon Getto Daze! – Let’s Get Pokémon! – Uhvatimo Pokémone!); u engleskoj verziji glasila je "Gotta catch 'em all!" ili na hrvatskom "Moraš skupit' sve!". Doduše, danas se te fraze više ne koriste jer je broj Pokémona od prvotnih 150 dostigao zavidnu brojku od 493 Pokémona, te bi bilo nemoguće pohvatati ih sve u samo jednoj igri (osim ako se ne koriste šifre i kodovi).
Ideja Pokémon sage temelji se na hobiju skupljanja kukaca, popularnoj razonodi u kojoj je tvorac Pokémona, Satoshi Tajiri, uživao kao dijete. Tajirijeva formula prošla je u Japanu te je ubrzo prilagođena (i prevedena) 1998. za američko tržište, puštanjem videoigara Pokémon Red i Blue. Ove igre dopuštale su igračima da pohvataju, skupljaju i treniraju stotinu neobičnih bića, poznatih kao Pokémoni; i jedne protiv drugih koristiti u borbama povećavajući njihovu snagu. Ti bi Pokémoni zatim "evoluirali" u snažnije Pokémone, istodobno učeći snažnije napade i tehnike. Pokémoni nikada ne krvare ili umiru u bitkama, samo oslabe, ponekad do granice da se onesvijeste – ovo je za Tajirija bilo veoma osjetljiva tema jer nije htio popuniti svijet igara s još "besmislenog nasilja".
Pokémon je skupno ime za sve fiktivne vrste u Pokémon svijetu. Do danas, franšiza je dosegla zavidnu brojku od 493 jedinstvenih vrsta u kojima leži bit cijelog projekta te se broj Pokémona bitno povećao od prvobitnih 150 džepnih čudovišta u početnim verzijama videoigara, Pokémon Red i Pokémon Blue. Riječ Pokémon odnosi se na svakog Pokémona, doduše, u engleskom jeziku riječ ostaje nepromijenjena i za jedninu i za množinu. U hrvatskom jeziku, jednina glasi Pokémon, a množina Pokémoni. Svaka vrsta Pokémona ima svoje ime te se to ime koristi za jedinke te vrste kao i za cjelokupno ime vrste (npr. Cyndaquil – Cyndaquili, Bulbasaur – Bulbasauri).Sadržaj 1 Pokémon generacije 1.1 Prva generacija 1.2 Druga generacija 1.3 Treća generacija 1.4 Četvrta generacija 2 Načela igara 2.1 Početni Pokémoni 2.2 Pokédex 2.3 Razmjena i borbe 3 U drugim medijima 3.1 Animirana serija 3.2 Trading Card Game 3.3 Pokémon manga stripovi 4 Kulturni utjecaj 5 Kontroverze i kritike 5.1 Okrutnost prema životinjama 5.2 Zdravlje 6 Videoigre 6.1 Prva generacija 6.2 Druga generacija 6.3 Treća generacija 6.4 Četvrta generacija 7 Animirani serijali 8 Povezani članci
Pokémon generacije
Prvotne Pokémon videoigre bile su japanske RPG igre s elementima strategija te im je tvorac Satoshi Tajiri koji ih je namijenio igranju na Game Boyu. Ove videoigre, njihovi nastavci, remake verzije te prijevodi na engleski jezik i dalje se smatraju "glavnim" Pokémon videoigrama, videoigre na koje se odnose fanovi kada koriste izraz "Pokémon videoigre". Sveukupno, prodano je 143 milijuna kopija Pokémon videoigara (uključujući i njihove odgovarajuće konzole), što Pokémone čini drugom najbolje prodavanom franšizom ikad, nakon Nintendova Super Maria.
Sva licencirana Pokémon svojstva nadgledana od tvrtke The Pokémon Company strogo su podijeljena na generacije. Postoje tri generacije, koje su definirane Pokémonima koji se u njoj pojavljuju, s četvrtom u izradi. Svaka od ovih generacija prvi je put uvedena s po dvije Pokémon videoigre za Game Boy konzole i njegove nasljednike (uključujući i Nintendo DS), počevši s (u većini zemalja) Pokémon Red i Blue i njihovom remake verzijom Pokémon Yellow za prvu generaciju, zatim Pokémon Gold i Silver s njihovom remake verzijom Pokémon Crystal. Nakon toga došle su Pokémon Ruby i Sapphire, praćene s Pokémon FireRed i LeafGreen, remake verzijama prvotnih igara te Pokémon Emerald, remake verzijom treće generacije igara.
Ove generacije strogo su kronološki podijeljene distribucijom; velik broj Pokémona iz sljedećih generacija pojavljuje se u animiranim serijama, manga stripovima ili TCG-u prije nego što se Game Boy videoigre koje označuju tu generaciju puste u prodaju, ali animirane serije i manga stripovi podijeljeni su po sagama i generacijama po istoj shemi kao i videoigre.
Prva generacija
Kutija Pokémon Blue igre
Prva je generacija započela s Pokémon Red i Blue videoigrama. Prva generacija predstavila je prvotnih 151 Pokémona (od Bulbasaura do Mewa), kao i osnove borbama Pokémona. U Japanu, prva je generacija uključivala Pokémon Red, Green i kasnije Blue (s promjenom crteža Pokémona i podlogom u spiljama) verzijama, dok su druge zemlje započele s Red i Blue verzijama (obje su sadržavale obnovljene elemente), ali nikada nisu dobile Green verziju.
Ova je generacija kompletirana igrom Pokémon Yeloow: Special Pikachu Edition, koja je slabo povezana s Pokémon animiranom serijom, u kojoj igrač započinje s Pikachuom koji odbija ući u svoju Poké loptu, umjesto toga prateći trenera/igrača u stopu. Okrenuvši lice svom Pikachuu, igrači bi otprilike mogli prosuditi koliko ih njihov Pokémon voli. Ovi i još neki elementi slični su animiranoj seriji. Programeri su izmijenili pojavljivanja nekih trenera i Pokémona da bi igra što više nalikovala animiranoj seriji, uključujući i pojavljivanje Jessie i Jamesa, poznate članove Tima Raketa u glavnoj priči igre i animirane serije. Jessie i James koriste svoje potpisne Pokémone (Koffing, Ekans i Meowth). Koffing i Ekans poslije evoluiraju u Weezinga i Arboka, ali Meowth ne evoluira.
Ove verzije igara okretale su se oko Kanto regije, ali se pravo ime te regije nije znalo do puštanja druge generacije. Prva je generacija isto tako upoznala igrače s idejom glavnog protivničkog trenera kojeg igrač susreće nekoliko puta tijekom igre, kao i s timom zlih Pokémon trenera.
Ove su igre bile kompatibilne s N64 igrama Pokémon Stadium i Pokémon Stadium 2. Remake verzije prvih dviju Pokémon videoigara, zvane FireRed i LeafGreen, puštene su u prodaju u trećoj "Advance" generaciji.
Druga generacija
Cyndaquil i Totodile tijekom borbe u Pokémon Crystal igri
Počevši s Pokémon Gold i Silver videoigrama, druga je generacija Pokémona donijela novih stotinu Pokémona (od Chikorite do Celebija), povisujući broj Pokémona na 251, te je donijela novu Johto regiju. Inovacije su uključivale i GamBoy Color IR priključak za dobivanje "Mystery Gift", sustava izmjene dana i noći, koncepta biljaka koje su aktivno rasle i rađale Bobice (predmeti s posebnim iscjeljivim moćima) i Aprikorne (za pravljenje posebnih Poké lopta). U ovoj igri, igrač je mogao promijeniti svoju sobu i promijeniti je prema svom ukusu, kao i uzgajati Pokémone. Uzgajanje Pokémona bio je (i ostao) jedini način dobivanja Pokémon Beba (novu klasu Pokémona). Istodobno, uvedena su dva potpuno nova tipa; Mračni i Čelični tip Pokémona. Čak su i sami Pokémoni dobili neka drukčija svojstva, a jedna od najznačajnijih promjena jest da su Pokémoni sada dobili spolove. Prije, jedini Pokémoni koji su imali točno određen spol bili su oni iz obitelji Nidoran, koji imaju neobično velik oblik spolnog dimorfizma. Još jedna značajna, iako manja, izmjena jest da su NPC treneri dobili imena uz njihov običan naslov.
Ova igra uvela i je novi alat zvan Pokégear, uređaj koji je igraču koristio kao mobitel, radio, karta i sat. Funkcija mobitela korištena je da bi igrač komunicirao s NPC trenerima u igri zbog potencijalnih revanš borbi. Radio stanice koje su bile odabrane utjecale su na Pokémone koji su mogli biti nađeni u divljini. Postojala je i jedna stanica koja je igraču govorila gdje se mogu pronaći određeni Pokémoni. Sat je uključivao vrijeme i dan u tjednu, a majka protagonista mogla ga je promijeniti iz Standardnog (Zimskog) u Dnevno (Ljetno) računanje vremena. Poznavajući vrijeme uvelike je pomagalo igraču jer su se mnogi Pokémoni pojavljivali u točno određeno vrijeme, a neki su se Pokémoni razvijali u točno određenom dijelu dana (Espeon i Umbreon iz Eeveeja, ovisno o danu ili noći), dok su se neka događanja odvijala u točno određenim danima tjedna. Sunce je sjalo od 6 ujutro do 6 navečer, a ostatak vremena bila je noć.
Ova je generacija kompletirana izlaskom Pokémon Crystal videoigre u prodaju, koja je bila jedina ekskluzivna Game Boy Color Pokémon igra, i jedina koja je igraču dopuštala da izabere svoj spol (inače, do izlaska ove igre, i djevojčice i dječaci u igri morali su biti muškog spola jer nije bilo izbora). Isto tako, bila je prva igra koja je prikazivala animirane Pokémone (Pokémon bi izveo neku animaciju ili kretnju kada bi ga igrač susreo u divljini ili kada je pušten iz Poké lopte) i tekst na ekranu koji je najavljivao da je igrač ušao u novu lokaciju. Crystal verzija modificirala je pronalazak triju Legendarnih pasa, u kojoj je igrač na kraju susreo Suicunea i dobio mogućnost uhvatiti ga. Doduše, ostalo dvoje igrač je morao pronaći na normalan i teži način (nasumičnim susretima u divljini).
Treća generacija
Kutije Pokémon Ruby i Sapphire igara
Počevši od Pokémon Red i Blue igara, Pokémon Ruby i Sapphire dodale su još 135 novih Pokémona iz Hoenn regije, kao i Pokémon naravi (25 različitih tipova osobnosti Pokémona), 76 Pokémon sposobnosti (posebne sposobnosti koje Pokémon može koristiti u bilo koje vrijeme), Poké Kockice i Pokémon Izložbe te borbe Pokémona dva na dva. Doduše, ova je generacija izgubila izmjenu dana i noći, kao i kalendar, iako u igri postoji sustav koji prati vrijeme i Pokémoni koji se pojavljuju i evoluiraju samo u određeno doba dana. Ove su verzije uvele i mogućnost uzgajanja Pokémon bobica na određenim mjestima, te je svaka imala svoju vremensku duljinu rasta i cvjetanja, kao i mogućnost pravljenja "Tajnih baza" u drveću i špiljama u koje igrač može smjestiti Pokémon lutke, stolove, stolice, biljke kao i druge stvari.
Mnogi novi Pokémoni ove generacije bili su predmeti kritika, iz razloga što previše nalikuju na Pokémone iz ranijih generacija (primjeri su Butterfree i Beautifly, Seel i Spheal, Kingler i Crawdaunt) ili ne nalikuju na "životinje" poput ostalih (Regirock, Regice, Registeel i Mawile).
Torchic i Mudkip tijekom borbe u Pokémon Emerald igri
Treća igra bila je Pokémon Emerald, koja je nadogradila PokéNAV Trenerovim očima, koje su slične mobitelu u prethodnoj generaciji (ali malo modificiran, jer su igrači sada mogli primati pozive od Vođa dvorana koji su od njih mogli tražiti revanš do četiri puta, no igrači nisu mogli brisati brojeve NPC trenera). Emerald verzija doživjela je povratak Pokémon animacija nakon susreta s divljim Pokémonima. Sve tri verzije mogle su se igrati na Game Boy Advance konzolama.
Ova je generacija zaokružena igrama Pokémon FireRed i LeafGreen namijenjenima Game Boy Advance konzolama. To su remake verzije prvih dviju Pokémon videoigara, koje su uključivale i izbor igračeva spola, nove predmete i regije, instruktore napada, kao i sve vrline druge i treće generacije, isključujući sustav izmjene dana i noći i (osim u Japanu) kompatibilnost s e-čitačem.
Svih pet igara kompatibilne su s programom pohranjivanja Pokémon Box: Ruby & Sapphire za Nintendo GameCube, kao i s Pokémon Colosseum i Pokémon XD: Gale of Darkness igrama. Ta je igra predstavila pustinjsku regiju Orre, kao i iskvarene Shadow Pokémone, i sposobnost "Otimanja"; sposobnost krađe/spašavanja Pokémona od njihovih zlih trenera i na kraju, "pročistiti" njihova srca.
Ne nalik igrama druge generacije, treća generacija nije kompatibilna s prethodnim igrama u seriji, zbog hardverskih ograničenja. Zbog ovog problema, mnogi su Pokémoni postali nedostupni, no situacija je ispravljena puštanjem igara Pokémon Colosseum, Pokémon FireRed i LeafGreen te Pokémon Emerald. Pokémoni poput Celebija i Mewa, dostupnih samo putem Nintendovih sponzoriranih događaja, morali su ponovno biti podijeljeni.
Četvrta generacija
Promotivna kutija Pokémon Diamond igre
Četvrta generacija započela je puštanjem videoigara Pokémon Diamond i Pearl za Nintendo DS konzolu. Kako se primicao datum puštanja igara u prodaju, puštane su i neke sporedne igre, poput Pokémon Mystery Dungeon i Pokémon Ranger, koje su trenutačno puštene u Japanu od jeseni 2005. i rane 2006. Pokémon Mystery Dungeon otada je stigla u Ameriku, a Pokémon Ranger pušten je u prodaju 30. listopada 2006. Mnogo Pokémona iz ove generacije, poput Munchlaxa i Weavilea, imalo je sporedna pojavljivanja u sedmom i osmom Pokémon filmu (Pokémon: Destiny Deoxys i Lucario and the Mystery of Mew), kao i u Pokémon XD: Gale of Darkness i prije spomenutim igrama.
Zla organizacija ovoga puta zove se Tim Galaxy. Što se igara tiče, sustav izmjene dana i noći vratio se, s dva nova doba dana (zalazak i kasna noć), a razlike u spolovima očitije su, s malo modificiranim grafičkim znakovima Pokémona ovisno o spolu (ženke Butterfreeja imaju drukčije oznake na donjim krilima, ženke Woopera imaju kraća ticala od mužjaka, ženke Scizora imaju veći trbuh u usporedbi s mužjacima). Igre su kompatibilne s igrama treće generacije.
Pokémon Diamond i Pearl u Japanu su puštene u prodaju 28. rujna 2006.
Načela igara
Prvotne Pokémon igre bile su japanske RPG igre s elementima strategije, a kreirao ih je Satoshi Tajiri za Game Boy konzolu. Ove se igre (i njihovi nastavci, remake verzije i prijevodi na engleski jezik) i dalje smatraju glavnim Pokémon igrama, i igre su na koje se mnoge igrači odnose kada spominju termin "Pokémon igre". Ove su se igre prodale u 100 milijuna kopija. Ovo ih čini drugom najprodavanijom igraćom franšizom, nakon Nintendove serije Super Marija.
Prve igre u seriji bile su Pokémon Red i Blue (Red i Green u Japanu, praćene s Blue verzijom, a kasnije posebnim izdanjem Yellow verzije). Sve su igre gotovo identične, osim činjenice da je svaka igra imala izabranu grupicu Pokémona koja se nije pojavljivala u drugim verzijama. Glavni cilj ovih igara bio je uhvatiti bar jednog člana od svake 151 vrste Pokémona, iako je 151. mogao biti uhvaćen samo kroz posebne promocije (ili kroz zastoj u svim igrama prve generacije). Iako borba s čudovištima nije ništa novo za igre RPG žanra, mnogi igrači postaju gotovo ovisni o traženju, borenju i hvatanju svakog Pokémona u igri. Još jedan, vjerojatno lakši, cilj bio je postati Prvak Pokémon lige. Neke se Pokémone, poput Mewtwoa, moglo uhvatiti samo na taj način. Ovo se moglo izvršiti nakon prikupljanja svih osam bedževa pobjeđivanjem svih Vođa dvorana, te pobjeđivanjem Elitne četvorke i trenutačnog prvaka.
Početni Pokémoni
Jedan od dosljednih aspekata svih Pokémon igara – od Pokémon Red i Blue za Nintendo Game Boy, do igara Pokémon Diamond i Pearl za Nintendo DS konzole – izbor je tri različita Pokémona na početku igračeve avanture; ta tri Pokémona etiketirana su kao Početni (ili starter) Pokémoni. Igrač može birati između Vodenog, Vatrenog ili Travnatog Pokémona, autohtonog za to područje; iznimka od ovog pravila je Pokémon Yellow (remake verzija prvotnih igara koja prati priču Pokémon animirane serije), gdje igrač dobiva Pikachua, Električnog miša, poznatog po tome što je maskota Pokémon medijske franšize.
U Pokémon Red i Blue i u njihovim remake verzijama Pokémon FireRed i LeafGreen, tri izbora jesu Bulbasaur, Pokémon sjemenka, Charmander, Pokémon gušter, i Squirtle, Pokémon malena kornjača, dok je u posebnom izdanju Yellow verzije, početni Pokémon Pikachu, Pokémon miš. U Pokémon Gold, Silver i Crystal izbori jesu Chikorita, Pokémon list, Cyndaquil, Pokémon vatreni miš, i Totodile, Pokémon velike čeljusti. U Pokémon Ruby, Sapphire i Emerald izbori jesu Treecko, Pokémon macaklin, Torchic, Pokémon pile, i Mudkip, Pokémon riba skokunica. U Pokémon Diamond i Pearl izbori jesu Turtwig, Pokémon mladica, Chimchar, Pokémon mladi majmun, i Piplup, Pokémon pingvin.
Dvije Pokémon igre namijenjene igranju na GameCube konzoli, Pokémon Colosseum i Pokémon XD: Gale of Darkness, dvije su iznimke Travnatog-Vatrenog-Vodenog pravila. U Pokémon Colosseum igri, igrač započinje s Espeonom i Umbreonom, koji su već trenirani do neke mjere do koje se ne može reći da su početni Pokémoni. U Pokémon XD: Gale of Darkness, igrač igru započinje Eeveejem i, nedugo nakon početka igre, dobiva izbor predmeta kojima može razviti Eeveeja u pet različitih evolucija: Vaporeona, Jolteona, Flareona, Espeona i Umbreona.
Pokédex
Detaljniji članak o ovoj temi: Pokédex
Pokédex je izmišljena elektronička naprava popularna u Pokémon videoigri i animiranoj seriji. U igri, kad god je Pokémon uhvaćen, podaci o njemu bit će dodani u igračev Pokédex, no u animiranoj seriji i manga stripovima, Pokédex je iscrpna i sveobuhvatna elektronička verzija enciklopedije, koja se obično koristi kada se sreće nekog Pokémona po prvi put i očekuju su neke informacije o njemu.
U videoigrama, Pokémon trener dobiva praznu napravu na početku svog putovanja. Trenerov je cilj popuniti Pokédex susrećući i bar nakratko imati (hvatanjem, razmjenom ili evolucijom) svaku od različitih vrsta Pokémona. Igrač će dobiti ime i sliku Pokémona nakon što sretne jednog kojeg još nije susreo. Detaljnija informacija tipično je dostupna nakon što igrač uhvati člana te vrste Pokémona, njegovim hvatanjem, razmjenom ili evolucijom. Ova detaljna informacija uključuje visinu, težinu, vrstu i kratak opis Pokémona.
Razmjena i borbe
U svim Pokémon igrama, razmjena Pokémona i borbe s drugim trenerima bitan su dio same igre. Ove igre zauzimaju mjesto u single-player igri ili kao aspekt u multiplayer igri. Kako bi se Pokémoni mogli razmijeniti, oba se trenera moraju složiti koji će se Pokémoni razmijeniti. Ovo se može obiti drugom igraču o glavu jer će neki bezobziran trener tvrditi da šalje jednog Pokémona i poslati drugog, ne tako rijetkog Pokémona. Nakon što se Pokémoni odaberu, vrši se razmjena. Nakon što se transfer obavi, trenerima se prikazuju njihovi novi Pokémoni. Poslije razmjene Pokémon dobiva dodatno iskustvo u borbi.
Još jedan česti aspekt u svakoj Pokémon igri jest borba između trenera. Pravilo je da kada dvoje trenera uspostave kontakt očima, moraju se boriti. U singleplayer igrama, ovaj se "kontakt očima" strogo nameće, no neki NPC treneri imaju slab vidokrug, što znači da trener mora biti odmah pokraj njih prije nego ih izazovu, dok će neki drugi izazvati trenera na borbu čim se pojave na ekranu. Pravila borbe većinom su ista i podudarna za oba trenera. To znači da oba trenera moraju svojim Pokémonima reći koji da napad koriste, no napadi se odvijaju u krugovima, a Pokémon koji je brži od onog drugog napast će prvi. Novi tip borbe, dodan u Pokémon Ruby i Sapphire igrama, jest borba dva na dva. U takvim borbama, svaka strana ima dva Pokémona u igri.
Razmjena i borba Pokémona u Game Boy igrama ostvarivala se Gameboy link kabelom između dvaju Game Boy konzola. Oba igrača uputila bi se u Pokémon centar i izrazila bi želju za razmjenom ili borbom. Ova su se pravila nastavila i na Gameboy Advance igre s jedinom iznimkom što se te igre nisu mogle povezati. Pokémon FireRed i LeafGreen uvele su sposobnost korištenja bežične naprave za povezivanje kako bi napravila veze bez žice u manjoj sobi. Ovo je umanjilo upotrebu kabela koji se prije koristio, ali se može koristiti samo u igrama Pokémon FireRed i LeafGreen.
U drugim medijima
Animirana serija
Detaljniji članak o ovoj temi: Pokémon (anime)
Slika iz animirane serije (s lijeva na desno: Brock, May, Max, Misty, Ash i Pikachu
Pokémon animirana serija skup je zasebnih avantura, koja prikazuje Asha Ketchuma kao glavnog lika, i njegov san da postane Pokémon Majstor – iako je bit riječi Majstor nejasna. On i njegovi prijatelji putuju kroz svijet Pokémona, boreći se s ostalim Pokémon trenerima.
Prve, najpoznatije epizode jesu Pocket Monsters ili jednostavno Pokémon (često se na njih odnosi s frazom Pokémon: Gotta Catch 'em All kako bi ih se razlikovalo od ostalih serijala), koja prati avanture Asha Ketchuma tijekom njegovih putovanja kroz Kanto regiju. Pokémon World serijal pratio je njegove avanture kroz Orange otoke, mjesto koje je inače nedostupno u samim videoigrama, a Pokémon: Johto journeys, Pokémon: Johto league champions i Pokémon: Master Quest serijali pratili su Asha tijekom putovanja kroz Johto regiju. Ovi serijali temelje se na prvoj i drugoj generaciji Pokémona. Ashovi prijatelji tijekom ovih putovanja bili su Brock, Vođa dvorane grada Pewtera; Misty, najmlađa od četiriju sestara koje vode dvoranu grada Ceruleana; i poslije Tracey Sketchit, umjetnik i Pokémon promatrač koji im je pravio društvo tijekom putovanja kroz Orange otoke.
U prvotnim sezonama, Ashov je glavni protivnik još jedan trener iz grada Palleta, Gary Oak. Gary (čiji je djed Prof. Oak, čovjek koji je zadužen davati novim trenerima njihove prve, početne Pokémone) bio je jako poznat i praćen hrpom navijačica. Imena Ash i Gary dolaze od japanskih imena istih likova, Satoshija i Shigerua. Ova imena preuzeta su od dva čovjeka koji su zaduženi za čitav Pokémon projekt – tvorac Pokémona Satoshi Tajiri, i Shigeru Miyamoto, koji je Satoshiju pomogao da stvori cijeli projekt.
Saga se nastavlja tijekom serijala Pokémon: Advanced, Pokémon: Advanced Generation, i Pokémon: Advanced Battle, koji prate Asha i njegova putovanja kroz Hoenn, južnu regiju Pokémon svijeta. Ash preuzima ulogu učitelja i mentora mladoj Pokémon trenerici imena May. Njen brat Max prati ih tijekom njihova putovanja koji, iako nije Pokémon trener, poznaje ogromnu količinu informacija vezanih uz Pokémone. Brock (iz prvotnih sezona) ubrzo sustiže Asha, May i Maxa te im se pridružuje, ali se Misty vraća u grad Cerulean da bi preuzela svoju ulogu Vođe dvorane. Ova je sezona temeljena na trećoj generaciji Pokémona.
Poslije se Ash vraća u svoj rodni grad Pallet smješten u Kanto regiji i odlučuje se natjecati u Borbama bez granica (Battle Frontier), dok se May natječe u Kanto Pokémon Izložbama. Tijekom putovanja, nakratko im se pridružuje i Misty, na njenom putu prema dvorani grada Ceruleana. Ovaj dio serijala donekle se temelji na igrama Pokémon FireRed i LeafGreen te igri Pokémon Emerald.
Trenutačno, Ash putuje kroz novu regiju Pokémon svijeta, Sinnoh.
Trading Card Game
Detaljniji članak o ovoj temi: Pokémon Trading Card Game
Tipična Pokémon Trading Card Game karta (Vaporeon)
Pokémon Trading Card Game igra je u kojoj se koriste karte za skupljanje, čiji je cilj jednak kao u borbama u Pokémon videoigrama; igrači moraju koristiti karte (s individualnim snagama i slabostima) u pokušaju da pobijede protivnika "onesvješćivanjem" svih njegovih karata. Igra je prvi put puštena u prodaju u Sjevernoj Americi 1999., a izdavač je bio Wizards of the Coast.
Ipak, s puštanjem igara Pokémon Ruby i Sapphire videoigara namijenjenim za Game Boy Advance konzolu u prodaju, Nintendo USA preuzeo je igru karata od prethodnog izdavača karata, a to je bio Wizards of the Coast te ih je Nintendo USA počeo sam izdavati i puštati u prodaju. Expedition ekspanzija uvela je Pokémon-e Trading Card Game, karte koje su (većim dijelom) bile kompatibilne s Nintendo e-readerom. Nintendo je prekinuo s izdavanjem ovakvih karata nakon što su EX FireRed i LeafGreen karte puštene u prodaju. 1998. Nintendo je u prodaju pustio Game Boy Color inačicu karata u Japanu. 2000. ista je bila puštena u prodaju i u SAD-u i Europi. Ova je igra sadržavala digitalne verzije karata iz prvotnih setova karata i prve dvije ekspanzije (Jungle i Fossil), ali je isto tako sadržavala nekoliko karata ekskluzivnih za samu igru. Postoji i nastavak ove igre, ali nije bio pušten u prodaju izvan Japana.
Pokémon manga stripovi
Postoji nekoliko različitih, većinom japanskih, Pokémon manga stripova od kojih je 11 prevedeno na engleski jezik (time otvarajući jednostavniji put do prijevoda na druge jezike). Većina je stripova prilično drukčija od igara i animirane serije zbog istaknutijeg nasilja (Pokémoni katkad i umiru u borbi) i neprimjerenog jezika (koji je mahom ublažen u engleskim verzijama).
Kulturni utjecaj
Zabavni program imena Pokémon Live! obišao je Sjedinjene Američke Države 2000. godine. Temeljio se na Pokémon animiranoj seriji, ali je imao neke neprekidne greške vezane uz nju. 2002. zakazana je turneja diljem Europe, ali otkazana je iz nepoznatih razloga, vjerojatno zbog manjka interesa.
Pokémoni, postavši nevjerojatno popularna franšiza, ostavili su velik trag u popularnoj kulturi. Sami Pokémoni postali su ikone u popularnoj kulturi; primjeri su Pikachu balon koji se pojavio tijekom parade održane za Dan zahvalnosti u New Yorku, Pokémon-stiliziran Boeing 747-400, preko tisuću prodajnih predmeta i tematski parkovi u Nagoyi, Japan 2005. i Taipeiju 2006. Pokémoni su se pojavili i na naslovnici Time magazina 1999. Humoristična animirana serija Drawn Together ima lik imena Ling-Ling koji je izravna parodija na Pikachua. Razne serije poput ReBoota, The Simpsonsa, South Parka i All Grown Up! napravile su parodiju na Pokémone u nekim od svojih epizoda.
Kontroverze i kritike
Prvotni dizajn Jynxa
Prvotni dizajn Pokémona Jynxa (na slici desno) imao je nevjerojatnu sličnost s blackface zabavljačima. Iako Jynx vjerojatno predstavlja parodiju na japanske Ganguro i Yamanba trendove, koji su tijekom puštanja Pokémona u prodaju bile veoma popularni, ne može se poreći da se blackface-likovi nisu pojavljivali u ostalim animiranim serijama i manga stripovima.
Kako su Pokémoni postajali sve poznatiji u SAD-u, zamjetna sličnost s rasističkom slikom iz američke povijesti uvrijedila je neke. Posebno je uvrijedila autoricu dječjih knjiga Carole Boston Weatherford, koja je sliku Jynxa optužila da je rasistički stereotip u njezinu članku imena Politically Incorrect Pokémon, u magazinu Black World Today, ubrzo nakon što je prikazana epizoda Holiday Hi-Jynx. Epizoda je poslije zabranjena u SAD-u.
Kao odgovor na ovu kontroverzu, 2002. Nintendo je Jynxovu crnu boju licu promijenio u ljubičastu u Pokémon videoigrama, promjena koja će u animiranoj seriji biti vidljiva tri godine poslije, u Advanced Generation sezoni.
Okrutnost prema životinjama
Neki su ljudi primarni mehanizam Pokémona usporedili s borbama pijevaca. Gledano s ove točke, igra se prvenstveno sadrži od hvatanja i razmjenjivanja "divljih životinja", tjerajući ih da se bore jedne s drugima. Isto tako, sadrži brojne lijekove i droge koje pojačavaju njihovu snagu u borbama. Neki ljudi smatraju da bi ovo moglo potaknuti djecu na okrutnost prema životinjama i kockanje.
Doduše, fanovi ove borbe vide kao prijateljsko nadmetanje između dva tima Pokémona i njihovih trenera. Iz ove točke gledišta, Pokémoni nisu prisiljeni na borbu. Postoje i neki teritorijalni Pokémoni (primjerice Pidgeotto), iako je njegovo ponašanje veoma različito od teritorijalne prirode pijevaca, koji će napadati "neprijateljskog" pijevca dok jedan od njih ne ugine. Isto tako, treneri u borbama nikada ne iscrpljuju Pokémone do smrti, gledajući borbu na rubu "ringa". U igrama i animiranoj seriji, publiku se uči da borbe između Pokémona nisu nužne i ne dovode do rješenja problema. Nadalje, Pokémoni u borbama nikada ne umiru; samo postanu jako umorni, ponekad do te granice da se onesvijeste. Isto tako, u animiranoj seriji napominje se nekoliko puta da se treneri bore zajedno s Pokémonima, kao tim, ne jednostavno tjerajući ih da to čine sami.
Zdravlje
Jedna od scena koja je izazvala brojne epileptične napadaje
16. prosinca 1997. preko 635 djece u Japanu hospitalizirano je s konvulzivnim epileptičkim napadajima. Utvrđeno je da je uzrok napadaja bilo gledanje epizode Pokémona, "Dennō Senshi Porygon" ili "Computer Soldier Porygon" te otada ova epizoda više nikada nije bila prikazivana. Nakon dodatnog istraživanja, dokazano je da su svjetlucajući efekti tijekom serije rezultirali napadajima kod nekih osoba, čak iako prije nisu imali povijest epileptičkih napadaja. Kao posljedica toga, mnogi su proizvođači videoigara (uključujući i Nintendo) dodali etikete upozorenja na njihove proizvode, upozoravajući da bi izlaganje svjetlosnim efektima igre moglo uzrokovati epileptičke napadaje kod ljudi osjetljivih na fotosenzitivnu epilepsiju. است نویسنده سری کتابهای داستان هری پاتر به زبان انگلیسی است. کتاب های هری پاتر شهرت جهانی پیدا کرد و جوایز بسیاری را به خود اختصاص داد. هری پاتر به 65 زبان و به طور تقریبی در 400 میلیون نسخه منتشر شده است. کتابهای افسانهای هری پاتر از پرفروشترین کتابهای تاریخ بشر بودهاند. در سال 2007 sunday times rich list میزان ثروت رولینگ را به 454 میلیون پوند (1.07 بیلیون) دلار تخمین زد و در بین پولدارترین زنان انگلیس رولینگ را در رده 13 جدول قرار داد. فوربز (Forbes) رولینگ را در رده چهل و هشتمین شخصیت معروف در سال 2007 معرفی کرد. او در حال حاضر فعالیت های انساندوستی و خیرخواهانه بسیاری را به عهده گرفته و پشتیبانی می کند. فهرست مندرجات ۱ نام ۲ زندگی ۳ منابع ۴ پیوند به بیرون
نام
علیرغم اینکه او با نام مستعار جی.کی رولینگ کتاب هایش را امضا می نماید ولی او هیچگاه نام وسط (middle name )نداشته است. هنگامی که اولین کتاب هری پاتر را نوشت آن را با نام "جوان رولینگ" امضا کرد. ناشر کتاب هری پاتر بلومزبری (bloomsbury) قبل از انتشار آن با در نظر گرفتن این مطلب که خوانندگان کتاب پسران جوان می باشند و ممکن است کتابی را که نویسنده اش زن باشد را نخرند، به رولینگ پیشنهاد کرد بجای استفاده از نام واقعی اش کتاب را با دو مخفف امضا نماید. از آنجاییکه وی مانند سایرین نام وسط (middle name) نداشت. مخفف "کی"(k) برای نام کاتلیین را بعنوان دومین مخفف انتخاب نمود. این نام مربوط به مادر بزرگ پدریش بود. رولینگ بعد از ازدواجش نامش جوان مورای بود. او میگوید در دوران جوانیش هیچگاه کسی وی را" جوان" خطاب نمی کرده مگر اینکه از دست وی عصبانی بوده باشد و همه او را "جو" می نامند.
زندگی
رولینگ در سال ۱۹۶۵ در شهر ییت نزدیک بریستول انگلستان چشم به جهان گشود. او در رشتهی زبان و ادبیات فرانسه در دانشگاه اکستر انگلستان به تحصیل پرداخت. رولینگ درسال ۱۹۹۰ هنگامی که در انتظار یک قطار که تأخیر داشت، بود، ایدهی هري پاتر و مدرسهی جادوگری در ذهنش شکل گرفت و سه سال بعد در زمانی که از همسر روزنامهنگار پرتغالیاش جدا شده و در حالی که همراه دخترش ـ جسیکا ـ که حاصل ازدواج نافرجامش بود، در ادینبورگ اقامت گزید و در یک بحران شدید روحی، مادی شروع به نوشتن اولین کتابش نمود و پس از دو سال و یازده ماه کار پیوسته، رولینگ دستنوشتههایش را برای دفتر انتشاراتی بلومزبری فرستاد و در اینجا بود که درهای خوشبختی به روی او باز شد.
رولینگ در ۲۱ ژوئيه ۲۰۰۷ (۳۰ تير ۱۳۸۶) هفت گانهٔ هري پاتر را به اتمام رسانيد. او همچنين دو کتاب به نام های کوییدیچ در گذر زمان و جانوران جادویی و زیستگاه آنها نوشته است.
وی اکنون با درآمد سالانه ۱۲ میلیون پوند، پردرآمدترین نویسنده تاریخ جهان شناخته شده است. اول پادشاه پروس به تحریک بیسمارک با اتریش و فرانسه به راه انداخت. ویلهلم اول، پس از رسیدن به پادشاهی، بیسمارک را به نخستوزیری برگزید. اولین جنگ بین پروس و دانمارک بود که علت آن اختلاف بر سر دوکنشینهای شلسویگ، هلشتاین، لونبورگ بین پادشاه دانمارک و اتحادیه ایالتهای آلمانی بود. بیسمارک از دولت اتریش دعوت نمود تا با پروس در حل اختلاف بین اتحادیه ایالتهای آلمانی و دانمارک همراهی کند و از آنجا که هر دو کشور از کریستیان پادشاه دانمارک خواستند از انضمام شلسویگ به خاک خود چشم بپوشد، و پادشاه دانمارک به این امر راضی نشد آن دو کشور با ۹۰ هزار سپاه به دانمارک حمله نمودند. سپاهیان کریستیان به علت کمی نیروها شکست خوردند و او درخواست صلح نمود و سرانجام به موجب عهدنامهای که در وین منعقد شد دانمارک رسماً از دوکنشینهای سه گانه چشم پوشید. پروس دوکنشین لونبورگ را تصرف کرد و اتریش ۱۵ میلیون مارک غرامت از آن دوکنشین گرفت و حکومت دو دوکنشین دیگر نیز بین دو دولت تقسیم شد.
بیسمارک پس از جنگ دانمارک درصدد بود بین پروس و اتریش نیز جنگی ایجاد کند، ولی برای احتیاط ابتدا با ناپلئون سوم امپراتور فرانسه دوست شد و او را راضی نمود تا در جنگ بین پروس و اتریش بیطرف بماند و سپس با ویکتور امانوئل دوم پادشاه ایتالیا بر ضد اتریش معاهدهای منعقد ساخت. پس از آن، اتریش را متهم ساخت که در حکومت هلشتاین از رعایت منافع مشترک دو دولت خودداری کردهاست. همچنین موضوع تغییر وضع اتحادیه دولتهای آلمانی را پیش کشید و مجلس اتحادیه ایالتهای آلمانی به اتریش اعلان جنگ داد. جنگ سادو که آلمانیها آن را کونیگراتس میگویند نتیجه درگیری بین پروس و اتریش را مشخص نمود. بعد از آن دیگر اتریشیها مقاومت جدی نکردند و در فردای جنگ سادو، فرانسو ژوزف درصدد برآمد با ناپلئون سوم صلح نماید. به موجب معاهده پراگ، ایالات شلسویک هولشتاین، هانور الکنرال، هس و فرانکفورت ضمیمه پروس گردید و پروس، که تا این زمان دو قطعه جداگانه بود، به یک مملکت تبدیل شد. بعد از این، بیسمارک با ممالک واقع در شمال رودماین در مورد تشکیل یک اتحادیه جدید به مذاکره پرداخت و این هیئت به اسم ممالک مجتمعه آلمان شمالی در ماه آوریل ۱۸۶۷ تشکیل گردید که شامل ۲۲ مملکت یعنی تمام ممالک آلمان به جز آلمان جنوبی (ممالک باویر و ورتامبرگ و گراندوشه باد) میشد.
جنگ فرانسه با آلمان
بیسمارک پس از غلبه بر اتریش درصدد به راه انداختن جنگ پروس با فرانسه بود. این جنگ دو علت داشت: اولاً اراده بیسمارک در تکمیل وحدت آلمان به وسیله منضم کردن ممالک جنوی به ممالک مجتمعه شمالی که برای موفقیت در این امر لازم بود احساسات ضد پروسی را در ممالک جنوبی به وسیله احساسی قویتر که کینه نسبت به فرانسه (دشمن ارثی) باشد از بین ببرد؛ ثانیاً دولت فرانسه نتوانست در موقع مساعد اقدامات لازم را انجام دهد و تظاهراتی جنگجویانه داشت. دولت فرانسه از بیسمارک قسمتی از اراضی باویر در ساحل رود رن و همچنین شهر مایانس را تقاضا نمود (پنجم اوت ۱۸۶۶) و چون بیسمارک جواب داد که این تقاضا در حکم جنگ است این تقاضا پس گرفته شد؛ ولی طولی نکشید که فرانسه در ۲۰ اوت الحاق فوری لوکزامبورگ و اجازه الحاق بلژیک را در موقع مساعد درخواست نمود و در مقابل: اولاً پروس را آزادی میداد که در آلمان جنوبی مثل آلمان شمالی آزادانه عمل کند، ثانیاً حاضر شد با پروس قرارداد تعرضی و تدافعی منعقد نماید. بیسمارک هم پیشنهادهای ناپلئون را فوراً با شاهان باویر و ورتمبرگ اطلاع داد و آنها خشمگین شده و قراردادهای نظامی با ویلهلم اول منعقد ساختند. بدین ترتیب، اهالی ایالتهای جنوبی آلمان هم نسبت به فرانسه بدبین شدند. لوکزامبورگ ملک شخصی پادشاه هلند بود و او راضی شد به ۹۰ میلیون فرانک آن را به فرانسه بفروشد؛ اما این خبر هیجانی در آلمان برانگیخت و بیسمارک پادشاه هلند را مجبور ساخت از فروش لوکزامبورگ خودداری نماید و سرانجام این موضوع در کنفرانس لندن مورد بررسی قرار گرفت. اختلاف دیگر بر سر سلطنت اسپانیا بود که در ۱۸۶۸ نام پرنس لئوپلد پسر عم پادشاه پروس به میان آمد و این امر هم موجب نگرانی فرانسه گردید. سرانجام درروز سهشنبه ۱۹ ژوئیه ۱۸۷۰ ناپلئون رسماً به دولت پروس اعلان جنگ داد و در دوم اوت جنگ آغاز شد و تا شش ماه ادامه یافت. در پایان کار فرانسویان شکست خوردند. به موجب عهدنامه فرانکفورت فرانسه مجبور شد آلزاس و لورن را به آلمان واگذار کند، یک میلیارد دلار غرامت بدهد و اجازه دهد آلمان استحکامات مهم فرانسه را تا زمان پرداخت غرامت در تصرف داشته باشد. شکست فرانسه در ۱۸۷۱ موجب تشکیل امپراتوری آلمان گردید، باویر، ورتمبرگ و باد به اتحادیه آلمان شمالی پیوستند و پادشاه پروس ویلهلم اول به مقام امپراتوری رسید. امپراتوری ۲۵ دولت نامتساوی و همچنین سرزمین آلزاس و لورن را که از فرانسه جدا شده بود شامل میشد. مجلس امپراتوری (رایشتاگ) با آراء عمومی انتخاب میشد و احزاب برجسته آن عبارت بودند از محافظهکاران، کاتولیکها، آزادیخواهان و سوسیالیستها. بیسمارک سیاست جهاد برای تمدن را در پیش گرفت و اصلاحاتی انجام داد.
اتفاق امپراتوران سه گانه
دولت آلمان پس از آنکه بر امپراتوریهای اتریش و فرانسه پیروز شد قدرتمندترین دولت اروپا گردید و قوای نظامی آن بر سایر کشورها برتری یافت ولی از انتقام فرانسه بیم داشت و میترسید دول بزرگ اروپا برضد او متحد شوند. به همین علت پس از مصالحه فرانکفورت، با اتریش طرح دوستی ریخت. در سال ۱۸۷۱ در طی ملاقات ویلهلم اول و فرانسوا ژوزف این پیمان محکم شد. سال بعد الکساندر دوم تزار روسیه، که شخصاً به امپراتور آلمان علاقهمند بود، با آن دو دولت همراه شد و این پیمان به اتفاق امپراتوران سهگانه معروف شد. (اکتبر ۱۸۷۳)
جنگ روسیه و عثمانی
جنگ بین روسیه و عثمانی که در ۱۸۷۷ آغاز شده بود به پایان رسید و روسها در سوم مارس ۱۸۷۸ معاهده سن استفانو را به ترکها تحمیل نمودند. برای رفع اختلاف در این مورد کنگره برلین در ژوئیه ۱۸۷۸ بین کشورهای اروپایی تشکیل شد. تزار نسبت به بیسمارک و روشی که در کنگره اعمال کرده بود خشمگین بود و الکساندر دوم رهبر آلمان را به مانند، یک خائن نگاه میکرد و در نتیجه، اتفاق سه امپراتور از بین رفت. همچنین در سال بعد رقابت روسیه و اتریش در بالکان موجب مداخله آلمان شد و چون اتریش از نژاد ژرمن بود آلمان از اتریش طرفداری کرد. از این رو اتحاد سهگانه به اتحاد دوگانه تبدیل شد. به موجب این معاهده آلمان و اتریش قبول نمودند که در هنگام لزوم به هم یاری برسانند و هیچگاه جداگانه با دشمن صلح نکنند.
شکلگیری اتحاد مثلث
سه سال بعد در سال ۱۸۸۲ پیمان دوجانبه به پیمان سهجانبه تبدیل گردید و ایتالیا به آن ملحق شد. براساس مواد محرمانه این پیمان، اگر ایتالیا یا آلمان مورد حمله فرانسه واقع میشد هر سه کشور با مهاجم وارد جنگ میشدند. ایتالیاییها، که از قدرت دریایی ترس داشتند، اعلام کردند اگر بریتانیا در این حملات شرکت داشته باشد، این پیمان اجرا نشود. چون ایتالیا از تصرف تونس توسط فرانسه در ۱۸۸۱ ناراضی بود و از طرف دیگر آلمان به آن کشور پیشنهاد کرده بود که برای حفظ لیبی کمکش کند در نتیجه، ایتالیا نیز مایل بود که وارد اتحاد با آلمان شود (اکتبر ۱۸۸۱). این اتحاد در ابتدا پنج ساله بود ولی بعداً در سالهای ۱۸۸۷ و ۱۸۹۱ و ۱۹۰۲ و ۱۹۱۲ تجدید شد. در این اتحاد مثلث، آلمان بر دو دولت دیگر مسلط بود و آنها غالباً تابع دستورهای آلمان بودند و در اختلافات بین اتریش و ایتالیا، آلمان همیشه واسطه بود ولی بیشتر از اتریش حمایت مینمود. همچنین قراردادهای مخصوصی در مورد طرابلس، آلبانی و مقدونیه و ممالک بالکان بین دولتهای سهگانه امضا شد که موجب تحکیم اتحاد مثلث میگردید. در بین این سه دولت اختلافاتی هم وجود داشت؛ ایتالیا و اتریش در شبه جزیره بالکان و قسمت شرقی مدیترانه با هم اختلاف داشتند و ایتالیا از اتحاد با اتریش ناراضی بود، ولی چون اتحاد با آلمان را برای جلوگیری از تجاوزات اتریش ضروری میدانست مجبور به تحمل بود. در سال ۱۹۱۱، که ایتالیا با عثمانی بر سر طرابلس در حال جنگ بود، این خطر وجود داشت که اتحاد ایتالیا و آلمان از بین برود؛ زیرا آلمان از دربار قسطنطنیه امتیازات خوبی گرفته بود و برای عثمانی اسلحه و مهمات میفرستاد. بنابر این در اتحاد مثلث وحدت واقعی بین کشورهای ژرمنی نژاد آلمان و اتریش بود و ایتالیا چندان به حساب نمیآمد. ایتالیا هم ظاهراً در اتحاد مثلث بود و از سال ۱۹۰۱در واقع با متحدین نبود و روش خاصی را در پیش گرفت.
مقدمات شکلگیری اتفاق مثلث
بعد از کنگره برلین، که روسها از آلمانیها رنجیدند، دولت فرانسه، که منتظر فرصت بود و مایل بود روسیه را به سوی خود جلب کند، از فرصت استفاده نمود؛ ولی تا زمانی که بیسمارک، بر سر کار بود این امر ممکن نشد. در سال ۱۸۹۰، بعد از برکناری بیسمارک سیاست غیرعاقلانه ویلهلم دوم موجب نزدیکی فرانسه و روسیه گردید.
دولت فرانسه به تزار روس وعده کمک مالی داد و تزار هم که برای پیشبرد مقاصد سیاسی خود به سرمایه خارجی نیاز داشت با این امر موافقت نمود و سرانجام در اوت ۱۸۹۱ اتحاد بین دو کشور برقرار گردید. البته بعد از شکست روسیه از ژاپن در ۱۹۰۵ اساس اتحاد فرانسه و روسیه متزلزل شد؛ ولی به هر حال، فرانسه در مقابل اتحاد مثلث به دوستی احتیاج داشت؛ همچنین، علاوه بر نیاز سیاسی، ارتباطات مالی نیز بین دو کشور برقرار شده بود و فرانسه ۱۳ میلیارد فرانک به روسیه وام داده بود. در مه ۱۹۰۳ ادوارد هفتم از پاریس دیدن کرد و در این دیدار از نظر تحسینبرانگیز مردم انگلیس نسبت به فرانسه و از افتخارات فرانسه در طول سالیان و از دوستی مردم انگلیس و فرانسه سخن گفت. در ماه اوت همان سال رئیسجمهوری فرانسه به اتفاق وزیر امور خارجه آن کشور از لندن دیدار کرد و در هفتم آوریل ۱۹۰۴ عهدنامه معروف بین فرانسه و انگلیس به امضا رسید. موارد مورد اختلاف شامل امور مربوط به ماهیگیری در پهنه دریای ارض جدید، مسئله سیام، ماداگاسکار و مهمترین مسئله آزادی عمل فرانسه در مراکش و آزادی فعالیت انگلیس در مصر بود. فرانسه پس از اتحاد با انگلیس به فعالیت در مراکش پرداخت و واکنش آلمان چنین بود که در مارس ۱۹۰۵م ویلهلم دوم در طنجه حضور یافت و نطق مفصلی را در مورد استقلال مراکش بیان نمود، هدف آلمان از این اقدام برهم زدن اتحاد جدید فرانسه و انگلیس بود. برای حل این موضوع در ۱۹۰۶ یک کنفرانس بینالمللی در الجزیره برگزار شد که در آن انگلیسیها از فرانسویها حمایت کردند و کوشش آلمان برای برهم زدن اتحاد بین انگلیس و فرانسه به نتیجهای نرسید. در ۱۹۱۱ بحران دیگری بر سر مراکش به وجود آمد. یک فروند ناو جنگی آلمانی به نام یوزپلنگ برای حفظ منافع آلمان وارد اغادیر شد و آلمانیها پیشنهاد کردند که اگر کنگوی فرانسه به آنها داده شود آنها دیگر مزاحمتی ایجاد نخواهند کرد و سرانجام آلمانیها توانستند به اراضی کوچکی در افریقا دست یابند.
نزدیکی روس و انگلیس
دولت فرانسه با روسیه دوست بود، انگلیس هم متحد ژاپن به شمار میآمد و روس و ژاپن دشمن خطرناک یکدیگر بودند؛ اما منافع روس و انگلیس چنین اقتضا مینمود که روس و ژاپن به اتحاد فرانسه و انگلیس وارد شوند؛ ولی بلندپروازی روسها در این تاریخ و قدرت نظامی آن و همچنین نزدیکی امپراتور روس و آلمان که روابط آنها دوستانه بود مانع این کار میشد. مشکل اول با شکست روسیه از ژاپن حل شد. اختلافات دیگر روس و انگلیس بر دو مسئله دیگر متمرکز بود: یکی بالکان برای تصرف بغازها و دیگری در ایران که انگلیس دوست داشت این مناطق کاملاً در اختیار خودش باشد. مسئله دیگر که باعث سردی روابط انگلیس و آلمان شده بود برخورد قیصر آلمان در موضوع ترانسوال بود؛ زیرا هنگامی که پل کروگر حاکم ترانسوال میخواست به ترانسوال استقلال بدهد و در پی متحدی در برابر سیسیل رودز و انگلیس بود تنها قدرتی را انتخاب نمود که سرزمینهایی در افریقای جنوبی داشت و آن کشور آلمان بود پس از پیروزی بوئرها تلگرافی از سوی قیصر آلمان برای او فرستاده شد با این مضمون: «من دوستانه به شما تبریک میگویم که شما بدون دریافت کمک خارجی گروههای مسلح را سرکوب نمودید و توانستید صلح و آرامش را برقرار نمائید» و این برخورد قیصر برای روابط انگلیس و آلمان عواقب جدی داشت؛ زیرا قیصر از کروگر که دشمن انگلیس بود حمایت کرده بود. مسئله دیگر صادرات روزافزون آلمانیها بود زیرا در سال ۱۸۹۵ در انگلیس رسالهای تحت عنوان ساخت آلمان منتشر شد که خطر صادرات روزافزون آلمان را برای انگلیس تشریح میکرد.
مسئله دیگر که ایجاد خطر برای انگلیس مینمود پیشرفت نیروی دریایی آلمان بود. ویلهلم دوم از سال ۱۹۰۰ به تقویت نیروی دریایی آلمان پرداخت و علناً اظهار نمود که آلمان نمیتواند به نیروی زمینی قناعت کند و باید در نیروی دریایی بر همه کشورها برتری داشته باشد. انجمنی به نام اتحاد دریایی آلمان تشکیل داد و به کمک آن هزینه لازم را برای ساختن کشتیهای جنگی تأمین نمود. همچنین پیشرفتهای تجاری و صنعتی آلمان نیز باعث شکست بازار تجارت و صنعت شده بود. به هر حال، این سوال مطرح است که چرا انگلیس در بین روسیه و آلمان، اولی را انتخاب نمود: چون منافع انگلیس هم از طرف روس و هم از طرف آلمان تهدید میشد؛ از یک طرف خطر توسعه نفوذ روس، و از سوی دیگر خطر نفوذ آلمان در آسیای صغیر و خلیج فارس و اتصال راهآهن بغداد به داخل ایران و نزدیک شدن این دو خطر به مرزهای هند به مشکلات دفاع از هند میافزود و سیاست انگلیس این بود که این دو دولت را با هم درگیر سازد و قوای آنها را تحلیل ببرد؛ اما تأمل انگلیس در این بود که خود به کدام طرف ملحق شود. منافع بریتانیا حکم میکرد که به روسها نزدیک شود زیرا عقل و درایت روسها اندک و زورشان بیشتر بود؛ ولی مسئله این بود که انگلیس با تقاضاهای روسیه چگونه برخورد نماید؛ تقاضاهای روس در بالکان، داردانل، ایران و افغانستان. مسئله ایران و افغانستان یک امر حیاتی بود و صلاح در این بود که هیچ امتیازی در این منطقه ندهد؛ پس بهتر بود که انگلیس، روسها را به سوی بالکان و داردانل سوق دهد و آنها را امیدوار سازد. سرانجام، در قراردادی که در ۳۱ اوت ۱۹۰۷ در شهر سن پترزبورگ بسته شد روس و انگلیس اختلافات خود درباره ایران و افغانستان را حل کردند و چون اختلافات سیاسی انگلیس و فرانسه و روسیه حل شد سه دولت تشکیل اتفاق مثلث را دادند که هدفشان جلوگیری از پیشرفتهای سیاسی، اقتصادی و نظامی آلمان بود.
بحرانهای بالکان قبل از جنگ
از ۱۹۱۱ تا ۱۹۱۳ جنگهایی درگرفت که زمینه جنگ جهانی اول را آماده ساخت. در سپتامبر ۱۹۱۱ ایتالیا به عثمانی اعلان جنگ داد و طرابلس را اشغال نمود و در نیمه اکتبر ۱۹۱۲ جنگ به پایان رسید. در اکتبر ۱۹۱۲ تقریباً همزمان با ایتالیا، بلغارستان، صربستان، یونان و مونته نگرو به ترکیه حمله نمودند و در اوائل دسامبر ۱۹۱۲ ترکیه تقاضای صلح نمود. در تابستان ۱۹۱۳ جنگ دیگری بر سر غنائم به دست آمده از عثمانی درگرفت. کنفرانس سفیران در دسامبر ۱۹۱۲ توسط گری در لندن تشکیل شد و در ۳۰ مه ۱۹۱۳ در لندن قراردادی امضا شد که ترکها را مجبور میساخت مستملکات خود را از میدیا در ساحل دریای سیاه تا آلتوس در ساحل اژه را به اروپاییان واگذار کنند.
اوضاع داخلی و تحولات آلمان پس از وحدت
آلمان متحد از نظر قوای مادی و معنوی بی نظیر؛ مجدانه به تعلیم و تربیت فرزندان خود پرداخت، در توسعه فرهنگ و ترویج علوم بر همه کشورها پیشی گرفت و سعی داشت در صنعت و تجارت و بهداشت از علوم و اکتشافات جدید بهره بگیرد. از این رو، در مدت کوتاهی بزرگترین دولت صنعتی و تجاری اروپا گردید، مخترعان را تشویق نمود، صنایع شیمیایی را رونق داد، در وضع قوانین اجتماعی هم از بقیه دولتها پیشی گرفت و برای طبقه کارگر اهمیت قائل شد. در حالی که در بقیه کشورها حقی برای کارگران قائل نبودند. واقعیت دیگر اینکه حکومت خاندان هوهنتسولرن در این کار مؤثر بود. ملت آلمان پس از غلبه بر اتریش و فرانسه دچار غرور ملی شد و سیاستمداران آلمانی از روشهای مختلف این غرور ملی را تقویت نمودند. حتی هر معلمی ناگزیر بود که در سر کلاس درس برتری نژادی ملت آلمان بر سایر ملل عالم را بیان کند و در شاگردان خود روح جنگجوئی بدمد. گذشته از مجالس درس، در معابر، روزنامهها و کتب و نمایشگاهها این برتری نژادی به نوعی القا میشد؛ حتی نیچه یکی از معروفترین فیلسوفان آلمان هم چنین عقیدهای داشت و در یکی از آثار خود چنین گفتهاست که: «اگر آدمی جنگ را فراموش کند از او امید میباید برید» و به همین دلیل کم کم طرز فکر مردم آلمان یکسره تغییر یافت و بر آنها مسلم شد که نژاد آلمانی ممتاز است و باید به سراسر زمین مسلط باشد و این تسلط هم جز از راه جنگ امکانپذیر نیست. ترویج این افکار در آلمان سایر دولتهای اروپایی را نگران ساخت و باعث شد تا بر ضد نژاد ژرمنی با هم متحد شوند.
دولت آلمان تا اواخر قرن ۱۹ در افریقا مستعمرهای نداشت ولی پس از وحدت چون جمعیت آن افزایش یافت و صنعت و تجارت رونق گرفت به دنبال تحصیل مستعمرات برآمد تا هم قسمتی از مردم آلمان را به آنجا کوچ دهد و هم مواد خامی که برای کارخانههای داخلی لازم داشت فراهم کند و همچنین بازاری برای فروش کالاهای خود بیابد. سرانجام بیسمارک قسمت بزرگی از اراضی افریقا را به دست آورد که شامل توگو و کامرون در ساحل غربی افریقا و یک ناحیه در جنوب غربی و ناحیه دیگر در مشرق بود. آلمان پس از پیروزی بر فرانسه از نظر نیروهای نظامی بر سایر کشورهای اروپا برتری یافته بود؛ ولی باز هم به این کار ادامه داد و تا سال ۱۹۱۴ روز به روز بر قوای جنگی خود افزود. از سال ۱۹۱۱ آلمان در افزایش نیروهای جنگی کوشید و میزان گسترش قوای مزبور در سالهای ۱۹۱۱ و ۱۹۱۲ و ۱۹۱۳ با پیشرفت چهل ساله آن از ۱۸۷۱ تا ۱۹۱۱ برابر بود. در طی این مدت کوتاه شبکههای گسترده راهآهن و راههای شوسه، تأسیسات عظیم صنعتی، نهادهای قدرتمند اقتصادی و به خصوص تشکیلات گسترده نظامی آلمان موجب وحشت قدرتهای اروپایی گردید. در سال ۱۹۱۴ آلمان از نظر صنعتی و اقتصادی به پیشرفتهای عظیمی دست یافت. به لحاظ نظامی نیز دارای قدرتمندترین ارتش و نیروی دریایی شد. روحیه نظامیگری در مزرعه، کارخانه و پادگان و همه جا حاکم بود و همه چیز در خدمت ارتش قرار داشت. نیروهای نظامی آلمان بیش از یک میلیون نفر بودند و این افزایش نیروهای صنعتی و نظامی موجب اشباع جامعه آلمان گردید و آلمان مجبور بود سرمایه و کالاهای اضافی را به دیگر مناطق جهان بفرستد؛ بنابر این به دنبال مناطق نفوذ اقتصادی و منابع مواد اولیه بود و این هم یکی از دلایل جنگ جهانی اول بود.
برقراری روابط بین آلمان و عثمانی
یکی از کشورهایی که آلمان علاقهمند بود روابط خود را با آن گسترش دهد امپراتوری عثمانی بود که بر منابع نفتی تسلط داشت. از سال ۱۸۸۰م. آلمان متوجه اهمیت روابط با امپراتوری عثمانی گردید. در سال ۱۸۸۲ سپهسالار فون در گلتز از سوی سلطان عبدالحمید مأموریت یافت ارتش عثمانی را دارای سازمان منظمی سازد و افراد آن را آموزش دهد. افسران برجسته هیئت نظامی آلمانی که در عثمانی فعالیت داشتند شامل فیلدمارشال پروسی فن در گلتس، دو ژنرال دیگر لیمان فن ساندرز و فون فالکنهاین سه دریاسالار به نامهای سوچون، اودم و مرتن و چند افسر دیگر بودند.
البته یکی از طراحان برنامه گسترش فعالیت آلمان در خاورمیانه مارشال فن بی براشتاین بود که از ۱۸۹۷ تا ۱۹۱۲ سفیر آلمان در باب عالی بود و اعتقاد داشت که اجرای این برنامه موجب درگیری بین روسیه و آلمان خواهد شد. در سال ۱۸۹۸ ویلهلم دوم و ملکه آلمان به استانبول سفر کردند و فصل جدیدی در همکاری بین دو ملت پدید آمد. امپراتور آلمان در مسافرت دوم خود به امپراتوری عثمانی خود را طرفدار دوستی ملت ترک و سایر ملل ملسمان معرفی نمود و در نطق خود اظهار داشت: «اعلیحضرت سلطان عبدالحمید و ۳۰۰ میلیون مسلمان میتوانند اطمینان داشته باشند که آلمان، دوست و هواخواه آنهاست». این سیاست به زودی به لحاظ اقتصادی ثمرات مهمی برای آلمان به بار آورد، بانکداران و بازرگانان آلمانی در سراسر امپراتوری عثمانی مستقر شدند و امتیازات مهمی به مؤسسات اقتصادی آلمان داده شد. آلمان در جست وجوی نفت بود و علاوه بر آن برای رقابت با انگلیس به یک نیروی دریایی قوی نیاز داشت. آلمانیها در هنگام مذاکره با دولت عثمانی در مورد منابع نفتی عراق سخن نگفتند بلکه فقط تقاضای اخذ امتیاز خط راهآهن را داشتند، به این شرط که امتیاز استخراج معادن اطراف راهآهن تا شعاع ۲۰ کیلومتر به آنها داده شود. در سال ۱۹۰۲ بانک آلمان، امتیاز ساختمان راهآهن برلین – بغداد را به دست آورد که باعث نفوذ هرچه بیشتر آلمان در میانرودان میگردید. یکی دیگر از امتیازات آلمان از عثمانی ادامه راهآهن از بغداد به خانقین بود که آلمان تصمیم داشت پس از اتمام خط آهن بغداد، همین راه را از خانقین به تهران و ولایات مرکزی ادامه دهد و ایران را به اروپا مربوط سازد. در سال ۱۹۱۰ مدت تعهد ایران در مقابل روسیه که ۲۰ سال حق ساختن راهآهن را از ایران سلب نموده بود تمام میشد؛ به همین علت از طرف بانک مشهور آلمان به نام دویچه بانک مأموری به نام سیدروت به ایران آمد که امتیاز خط آهن خانقین ـ تهران را به دست آورد. این امر موجب نگرانی مقامات روسی و انگلیسی شد و باعث مبادله یادداشت هفتم آوریل ۱۹۱۰ بین ایران و آن دو دولت گردید، و ایران به ناچار تعهد نمود که بعد از این امتیازی که مخالف منافع آن دو دولت باشد به هیچ تبعه دولت خارجی واگذار نکند؛ بنابر این، تلاش آلمان به نتیجه نرسید.
اما نفوذ نظامی آلمان در امپراتوری عثمانی افزایش یافت و در ۱۹۱۴ آموزش ارتش عثمانی به یک گروه چهل و دو نفره از افسران آلمانی به ریاست ژنرال لیمان فن ساندرز واگذار شد. سپس آلمان تصمیم گرفت در مورد ادامه راهآهن برلین ـ بغداد با روسیه مذاکراتی انجام دهد. در ۱۹۱۰تزار نیکلای دوم و ویلهلم امپراتور آلمان در پوتسدام ملاقات نمودند و در مورد منافع روس و آلمان در ایران مذاکراتی صورت گرفت. سرانجام، در ۱۹ اوت ۱۹۱۱ قراردادی بین روسیه و آلمان در سن پترزبورگ منعقد شد که به موجب آن دولت آلمان منطقه نفوذ روسیه را به رسمیت شناخت. و در عوض روسیه هم اجازه داد که اگر تا چهار سال دیگر راهآهنهای روس به خانقین متصل نشود دولت آلمان حق داشته باشد خط آهن اسلامبول ـ بغداد و خانقین ـ تهران را بسازد.
دلایل وقوع جنگ جهانی اول
به طور کلی این مسائل بود که زمینههای جنگ جهانی اول را فراهم ساخت: علل جنگ جهانی اول عبارت بود از: رقابت اتریش و روسیه در بالکان، اختلاف بین فرانسه و آلمان از سال ۱۸۷۰ درباره آلزاس ولرن و رقابت اقتصادی و دریایی بین آلمان و انگلیس؛ اما بهانه شروع جنگ این بود که آرشیدوک فرانتس فردیناند ولیعهد امپراتوری اتریش - مجارستان به دست پرنزیب تبعه اتریش و متکلم به زبان صربستانی در ۲۸ ژوئیه ۱۹۱۴ در سارایوو بوسنی به قتل رسید و اتریش ادعا کرد صربستان در این کار دخالت داشته و تقاضا نمود تحقیقاتی با شرکت نمایندگان اتریش صورت پذیرد که دولت صربستان تحقیقات را قبول نمود ولی با حضور نمایندگان خارجی مخالفت کرد. دولت اتریش به صربستان اعلان جنگ داد و روسیه بسیج عمومی اعلام کرد و آلمان هم به حمایت از اتریش به روسیه و فرانسه اعلان جنگ داد. قوای آلمان به بلژیک حمله کرد و این اقدام یعنی حمله به یک کشور بیطرف موجب دخالت انگلیس در جنگ شد.
نخستین جبهه: از رمانتیسم به سنگرها
وقتیکه در ماه اوت ۱۹۱۴ جنگ اعلام شد، میلیونها تن از مردم شادمان در خیابانهای شهرهای مهم اروپا شروع به رقص و پایکوبی نمودند. مردم تصمیم حاکمان خود برای رفتن به جنگ مورد حمایت قرار دادند. مردان جوان داوطلب برای جنگیدن، هجوم میآورند. با این وجود، صحنههای دهشت انگیز جنگ جهانی اول، نگرش مردم به جنگ را تغییر داد. یک نسل کامل از مردان جوان به خاک و خون کشیده شدند.
جبهه شرق و روسیه
ایران در جنگ جهانی اول
جنگ جهانی اول همزمان با حکومت احمد شاه قاجار بود و دولت مشروطه ایران ضعیف ترین دوران خود را میگذراند.علیرغم اعلام بی طرفی دولت ایران نیروهای متخاصم از جنوب و شمال وارد ایران شدند. سپاه روسیه تا دروازههای تهران پیشروی کرد اما از منقرض کردن سلسله قاجار منصرف شدند. در جنوب مردم محلی در چند نوبت با متجاوزان انگلیسی درگیر شدند که از مهمترین نبردهای جنگ جهانی اول در ایران میتوان به مقاومت دلیران تنگستان در استان بوشهر و نبرد جهاد در خوزستان اشاره کرد. جمعی از رجال از قم به اصفهان و سپس اراک و بالاخره به کرمانشاه رفتند و عاقبت در آنجا قوای گارد ملی ترتیب دادند و حکومت موقتی دولت ملی به ریاست نظام السلطنه ( رضا قلی خان مافی ) تشکیل گردید. پس از سقوط بغداد اعضا دولت موقتی دولت ملی و جمع بسیاری از ایرانیان به استانبول رفتند.
پیامدهای بعدی جنگ جهانی اول
جنگ جهانی اول، چهار امپراتوری را نابود ساخت، امپراتوری آلمان تاج و تخت را از دست داد و دولت جمهوری جایگزین آن شد. امپراتوریهای شکست خورده اتریش ـ مجارستان و امپراتوری عثمانی هر دو از هم گسیختند و امپراتوری روسیه نیز بدست انقلابیهای بلشویک افتاد.
در سال ۱۹۱۶ م ملی گرایان ایرلندی در دوبلین واقع در ایرلند، قیام عید پاک را ترتیب دادند. این شورش با شکست مواجه شد، اما موج مخالفتهای گسترده علیه حکومت بریتانیا در ایرلند را به راه انداخت. در سال ۱۹۱۹ مجلس ایرلند، حکومت این کشور را «جمهوری» اعلام کرد، و متعاقب آن ۳ سال جنگ بین ارتش جمهوریخواه ایرلند و بریتانیا در گرفت .در سال ۱۹۲۹ ایرلند جنوبی ، به عنوان دولت آزاد ایرلند به استقلال واقعی رسید. شش استان درشمال ایرلند جزء پادشاهی انگلستان باقی ماندند.
در دهههای ۱۹۲۰ و ۱۹۳۰ م بسیاری از کشورهای اروپایی از دموکراسی دست کشیدند. حزب نازی هیتلر در آلمان به قدرت میرسد و فاشیستهای موسولینی بر ایتالیا حکومت میکنند. در ابتدا بریتانیا و فرانسه کوشیدند با این دیکتاتورهای جنگ طلب سازش کنند. آنها عاقبت در سال ۱۹۳۹ در برابر تهاجم هیتلر ایستادند و اروپا به جنگ جهانی دوم کشیده شد. در سپتامبر ۱۹۳۹ م، جنگ جهانی دوم در اروپا آغاز شد. دیکتاتور آلمان، آدولف هیتلر، میخواست تا رایش سوم به یک قدرت مطلقه در اروپا، تبدیل شود. در ابتدا تاکتیک حملات برق آسا موفقیت آمیز مینمود. اما پس از سال ۱۹۴۳م، قوای متفقین، متشکل از نیروهای، شوروی انگلستان و امریکا بر آلمان برتری یافتند. سرانجام، آلمان در ماه می۱۹۴۵م، نه روز پس از خودکشی هیتلر، تسلیم شد. بیش از چهل میلیون ا
todo políticamente. Alemania y Estados Unidos le disputaban el predominio industrial y comercial. Durante la segunda mitad del siglo XIX y los inicios del siglo XX se produjo la repartición de África (a excepción de Liberia y Etiopía) y Asia Meridional, así como el gradual aumento de la presencia europea en China, Estado en franca decadencia.
Estados Unidos y, en menor medida, el Imperio Ruso controlaban eficientemente sus vastos territorios, unidos por largas líneas férreas (ferrocarril Atlántico-Pacífico y Transiberiano, respectivamente). Inglaterra y Francia, las dos principales potencias coloniales, se enfrentaron en 1898 y 1899 en el denominado incidente de Faschoda, en Sudán, pero el rápido ascenso del Imperio alemán hizo que los dos países se unieran a través de la Entente cordiale. Alemania, que solamente poseía colonias en Camerún, Namibia, África Oriental, algunas islas del Pacífico (Islas Salomón) y enclaves comerciales en China, empezó a pretender más a medida que aumentaba su poderío militar y económico posterior a su unificación en 1871. Una desacertada diplomacia fue aislando al Reich, que sólo podía contar con la alianza incondicional de Austria-Hungría.
Francia deseaba la revancha de la derrota sufrida frente a Prusia en la Guerra Franco-prusiana de 1870-1871. Mientras París estaba asediada, los príncipes alemanes habían proclamado el Imperio (el llamado Segundo Reich) en el Palacio de Versalles, lo que significó una ofensa para los franceses. La III República perdió Alsacia y Lorena, que pasaron a ser parte del nuevo Reich germánico. Las generaciones francesas de finales del siglo XIX, sobre todo el Ejército, crecieron con la idea de vengar la afrenta recuperando esos territorios. En 1914 sólo hubo un 1% de desertores en el ejército francés, en comparación con el 30% de 1870.
Mientras tanto, los países de los Balcanes liberados del Imperio Otomano (el «enfermo de Europa») fueron objeto de rivalidad entre las grandes potencias. Turquía, que se hundía lentamente, no poseía en Europa —hacia 1914— más que Estambul, la antigua Constantinopla. Todos los jóvenes países nacidos de su descomposición (Grecia, Bulgaria, Rumania, Serbia, Montenegro y Albania), buscaron expandirse a costa de sus vecinos, lo que llevó a dos conflictos entre 1910 y 1913, conocidos como Guerras Balcánicas.
Impulsados por esta situación, los dos enemigos seculares del Imperio Otomano continuaron su política tradicional de avanzar hacia Estambul y los Estrechos. El Imperio Austrohúngaro deseaba proseguir su expansión en el valle del Danubio hasta el mar Negro, sometiendo a los pueblos eslavos. El Imperio Ruso, que estaba ligado histórica y culturalmente a los eslavos de los Balcanes, de confesión ortodoxa —ya les había brindado su apoyo en el pasado— contaba con ellos como aliados naturales en su política de acceder a «puertos de aguas calientes». Evidentemente, estas políticas opuestas entre una potencia católica y otra ortodoxa provocaron enfrentamientos.
Como resultado de estas tensiones, se crearon vastos sistemas de alianzas a partir de 1882: de una parte, Francia, el Imperio Británico y el Imperio ruso (Triple Entente) y el Imperio alemán, el Imperio Austrohúngaro e Italia (Triple Alianza).
A este período se le conoce como Paz armada, ya que Europa estaba destinando cuantiosas cantidades de capital al armamento y, sin embargo, no había guerra, aunque se sabía que ésta era inminente.
La guerra comenzó como un enfrentamiento entre Austria-Hungría y Serbia, pero Rusia se unió al conflicto, pues se consideraba protectora de los países eslavos. Tras la declaración de guerra austrohúngara a Rusia el 1 de agosto de 1914, el conflicto se transformó en un enfrentamiento militar a escala europea. Alemania respondió a Rusia con la guerra y Francia se movilizó para apoyar a su aliada. Las hostilidades involucraron a 32 países, 28 de ellos denominados «Aliados»: Francia, los Imperios Británico y Ruso, Canadá, Estados Unidos (desde 1917), Portugal, Japón, así como Italia que había abandonado la Triple Alianza. Este grupo se enfrentó a la coalición de las «Potencias Centrales», integrada por los Imperios Austrohúngaro, Alemán y Turco, acompañados por Bulgaria. Историографире çак термина, паллах, 1939 çулта Иккĕмĕш Тĕнче вăрçи пуçланса кайнă хыççăн палăртнă. Унчен ăна Аслă вăрçă (акăлч. The Great War, фр. La Grande guerre), ятпа усă курнă.Раççей Империнче хăш чух Иккĕмĕш Тăван çĕршыв (Аттеçĕр) вăрçи, çапла та халăхра (революциччен те, хыççăн та) германи вăрçи тенĕ; кайран СССР вăхăтĕнче большевиксем ăна империализм вăрçи шутне куçарнă.
Вăрçă умĕнчи истори
1914 çулчен Европăра вырăнти пĕчĕк хирĕçӳсем пулнă (Балкан вăрçисем, Италипе турккă вăрçисем), анчах вĕсенчен пысăк вăрçăсем тухман. 1905 çулта Германи Раççейпе пĕрлĕхлĕ килĕшӳ (Бьёрк килĕшĕвĕ) тăвасшăн тăрăшнă, анчах та вăл пурнăçа кĕрсе вăй илеймен. 1914 çул тĕлне икĕ вăрçă-политикăлла блоксем тĕрекленнĕ.
Антанта (1907 çулхи Аслă Британипе Раççей Пĕрлĕхĕ тĕпĕнчен пуçланса кайнă): Раççей Империйĕ; Аслă Британи; Франци. Виçъенлĕ Пĕрлĕх: Германи; Австри-Венгри; Итали.
Итали вăрçăна Антанта енче 1915 çулта çеç кĕнĕ — çапах та Германипе Австро-Венгри çумне вăрçă вăхăтĕнчех Турципе Болгари хутшăннă, вара Тăватъенлĕ Пĕрлĕх (Тĕп (Европăри) патшалăхĕсен Пĕрлĕхĕ) пулса тăнă. Тĕп (Европăри) патшалăхсем: Германи; Австро-Венгри; Турци; Болгари. Антанта: Франци; Аслă Британи; Раççей; Япони; Итали; Серби; АПШ. Антанта майлисем (Антантăна вăрçăра пулăшнă): Черногори Бельги Греци Бразили Китай Афганистан Куба Никарагуа Сиам Гаити Либери Панама Гондурас Коста-Рика
Вăрçă тапранса кайни
Сараево хулинче 1914 çулта çĕртме, 28 «Млада Босна» вăрттăн ушкăнра тăнă вунтăхăр çулхи серб студенчĕ Гаврила Принцип Австри эрцгерцогне Франц Фердинанда пăшалпа пенĕ. Çакăн хыççăн ĕнтĕ вăрçă тапранса каять. Çак пысăк вăрçă пуçланичченех Европăри аслă патшалăхсем — Германи, Австро-Венгри, Франци, Аслă Британи, Раççей — хушшинче пĕр-пĕринпе килĕшмен самантсем чылайланса пынă. Германи экономики хăвачĕ хăпарса пынă май ăна тĕнчери сутлăх пасарĕсене тата пуянлăх управĕсене пайлас вăхăт çитсе тăнă, анчах çак ĕçсене Аслă Британи хирĕç пулнă. Французсемпе германсем чикĕ çумĕнчи тавлашуллă çĕрсемшĕн (Эльзаспа Лотаринги) хирĕçме тытăннă. Çывăх Тухăçра пĕтĕм патшалăхсем арканма пуçланнă Осман империйĕн (Турци) çĕрĕсене пайлама (хăйсен айне тума) хатерленсе тăнă. Çурла, 4 — германи çарĕсем Бельгине тапăнса кĕнĕ. Çав кунах Аслă Британи, Раççейпе Франци умĕнчи пĕрлĕх явăпĕсене пурнăçласа, Германине хирĕç вăрçă пуçланине пĕлтернĕ. 1914, авăн (?)— пĕрремĕш (Марна çинчи) çапăçу. 1914 çулхи Тухăç-Прус операцийĕ.
Галицири çапăçу
Вăрçă икĕ тĕп вăрçă театăрĕсенче пынă. Анăç тата Тухăç Европăра; Балканра, Çурçĕр Италиире, колонисенче — Африкăра, Китайра, Океанире.
Юпа, 26 нимĕç шывайкимми U-24 (капитан-лейтенант Шнейдер) французсен «Амираль Гантом» пăрахутне торпедăланă. Пăрахут çинче вăрçă хăрушăвĕнчен таракан 2000 бельги çынни пулнă. Вĕсенчен 40 çын вилĕм тупнă.
Вăрçă хронологийĕ
1914 çулхи вăрçă кампанийĕ çĕртме, 28 Австро-Венгри Серби вĕсен ультиматумĕпе килĕшмен пирки (эрцгерцога вĕлернĕ серб террорисчĕсене тытса пама хушнă) Сербине хирĕç вăрçă пуçланнине пĕлтернĕ. çĕртме, 30 çакăн хыççăң Раççей çар мобилизаци тума пикеннĕ, вара Германи Раççей умне мобилизацине 12 сехет хушшинче чармалла тесе ультиматум лартнă. çурла, 1 — Германи Раççее хирĕç вăрçă пуçланине пĕлтернĕ. çурла, 2 — Германи Люксембурга оккупациленĕ те Бельги умне германи çарĕсене Бельги çĕрĕ витĕр Францине ирттерсе ямалла ультиматум лартнă. çурла, 3 — Германи Францине хирĕç вăрçă пуçланине пĕлтернĕ.
1915 çулхи вăрçă кампанийĕ Горлица талпăнăвĕ Изонцо çинчи пĕрремĕш çапăçу Изонцо çинчи иккĕмĕш çапăçу Изонцо çинчи виççĕмĕш çапăçу Изонцо çинчи тăваттăмĕш çапăçу
Вăрçă пуçлансанах тӳрех паллă пулать, çак хаяр кĕрешӳ тăсăмĕ вăрăм туртăмлă пулать. Антанта çĕршывĕсем, хăйсен вăйĕсем чылай пулсан та, пĕрлĕхлĕ ĕçсем тытса пырайман, çакăнпа уса курса Германи нумай тапхăр тапа тан вăрçма пултарнă.
Пĕрремĕш ăстрăм вăрçă хирĕсенче çапăçусем çав тери анлă пулса каяççĕ, весенче чылай халăхлă çарсем хутшăнаççĕ. Çавăн пекех пирвай хут танксене, авиацийе, дредноутсене (карапсене), хими хĕç-пăшалне çапăçусене кĕртнĕ. Раççей çарĕсем пĕрре çеç мар тăшманăн дивизийĕсене хăйсем çине çавăрса тăмарĕсене пĕтĕмпех çапса аркатиччен хăтарса пынă.
1916 çулхи вăрçă кампанийĕ Брусилов талпăнăвĕ; Сомма çумĕнчи çапăçу Ютланди çапăçăвĕ; Верден çумĕнчи çапăçу Изонцо çинчи пиллĕккĕмĕш çапăçу Изонцо çинчи ултăмĕш çапăçу Изонцо çинчи çиччĕмĕш çапăçу Изонцо çинчи саккăрмĕш çапăçу Изонцо çинчи тăхăрмĕш çапăçу
1917 çулхи вăрçă кампанийĕ Изонцо çинчи вуннăмĕш çапăçу Изонцо çинчи вунпĕрмĕш çапăçу Изонцо çинчи вуниккĕмĕш çапăçу (Капоретто патĕнчи çапăçу)
Нимĕçсемпе австро-венгăрсем çивĕч кĕрешнĕ пулин те, 1917 çул тĕлне çĕнтерӳ ĕçĕсем Антанта енне тайăлса пынă. Италия 1915 çулта Австро-Венгрине хирĕç вăрçă пуçлать. Антанта майлă АПШ тухать. 1916 , çурла Антантă çумне Румыни тăрать, анчах та ăнăçу çухалать; унăн çĕрĕсенегермани блокĕн çарĕсем йышăнаççĕ. Раççейри шалти ĕçĕсем хĕрсе кайнипе Февраль революцийĕ çĕнтерет, каярах Октябрь революцийĕ, çакăн хыççăн Раççей хăй шутпа вăрçăран тухса ӳкет (Брест мирĕ çырнă хыççăн), мĕншĕн тесен 1917 çулта Раççей вăрçă ĕçĕсене малалла тăсма пултарайман. Çак çăмăллăха пула Германи тепĕр çул хушши вăрçа тăсса пырать.
1918 çулхи вăрçă кампанийĕ Витторио-Венето патĕнчи итальянсемпе австрисен çапăçăвĕ. 1918 çулта чӳк уйăхĕнчи ăнăçусăр тапăну хыççăн (Анăç фрончĕ) Германире те революции пуçланнă (чӳк, 9 Вильгельм кайсера пĕрхĕтнĕ те Веймар республики йĕркеленĕ). 1918 чӳк, 11 германии тата тăмарлă çарпуçлăхĕ Компьенре çапăçусене чарса лартнă, çакăнпа Пĕрремĕш Тĕнче вăрçи пăчланса ларать. Чӳк уйăхĕнче Австро-Венгри темиçе çĕршыва пайланса каять; монархи йĕркине пĕтерсе хунă.
1919 çулта Парижри мирлĕ конференцире нимĕçсем Версаль килĕшӳ хучĕ çине ал пуснă.
Çавăн чухнех ытти килĕшӳ хучĕсене çирĕплетнĕ: Германипе (Версаль килĕшĕвĕ 1919) Австрипе (Сен-Жермен мирлĕ хучĕ 1919) Болгарипе (Нейи мирлĕ хучĕ 1919) Венгрипе (Трианон мирлĕ хучĕ 1920) Турципе (Севр мирлĕ хучĕ 1920).
Пĕрремĕш Тĕнче вăрçи хыççăн тăватă импери хавшакланса-саланса кайнă: Германи, Раççей, Австрипе Венгри тата Осман империйĕсем, юлашки иккĕшĕ пайланса кайнă, Германи тата Раççей монархийĕсен